2012年01月10日

きれいな別れ

 新しい年が来て、もう10日目です。身体が脱皮して漸く世間の風に晒されても大丈夫な気分になってきました。

 昨年末までは半農半コン仕上げの時期が近いと感じ、妙に力み過ぎていた私でした。

 三人の母(産みの母、育ての母、妻の母)が揃って何時逝ってもおかしくない状態が続いていたのです。どちらが先などとは予想すら出来ませんでした。

 ともに人生最終コーナーを同時に回ったと感じていたことだけは確かでした。成るように成るしかないと考え、それまでを仕事で気を紛らわしていたのかもしれません。

 その中で唯一気持ちの救いは父(実父)が多少体力は落ちてもまともな会話が出来、時々は一緒に見舞いや買い物に出かけることでした。

 取り留めない話しかしませんがこんな時がやって来るなど想像もしませんでしたから不思議な気分だったのです。

 父の生きがいは母の最期を看取ることであることはいつもの言動から明らかでした。“苦労掛けた。”と漁に明け暮れて長く家を母だけに託していた昔のことを何時も話していたからです。

 三度目の忘年会が済んだ翌23日、天皇誕生日の朝、兄から母が危篤との連絡がありました。こんな知らせは今年何度目だったかな?と軽く考えて病院へ向かったのです。

 結果は寸でのところで臨終に間にあいませんでした。父や兄家族も先には着いていましたが同じく間にあわなかったようです。

 亡くなった母を家に連れ帰る手配を終え、葬儀屋さんの車を待つまでの間、兄と二人だけで皆と離れて葬儀のことで話し合いました。まずは喪主を誰にすべきか?でした。

 足腰の弱った92歳の父では大変だろうから兄が務めるということで意見は一致しましたが念のため父の気持ちを私からさりげなく確認することにしました。

 疲れたため車椅子に乗って母の傍で俯いていた父に近づき話そうとすると突然顔を上げた父は私に向かって“喪主は俺がする。”と言い放ったのです。

 我々の意図を薄々感じていたのでしょうか?言い返すことは出来ませんでした。そのことを兄に告げ、名目上の喪主は父で、実質的なことは兄が務めるということを決めたのです。

 だがこの強い父の意志もここまででした。この後続く一連の葬儀において父は喪主の役目を果たす体力は全くありませんでした。

 私が押す車椅子に乗って皆と同行することが精一杯だったのです。兄に全てを任すと言っても良かったのにと私が言いかけるのではないかと恐れているように取れるのでした。

 父は葬儀の合間や終わったあとも身体が冷えるようで、私の用意した強力は遠赤外線ストーブの前に寝転び、足裏マッサージを際限なく要求するのでした。

 余程気持ちがいいのか何時までたっても「もう良い」とは言いませんでした。私は毎日時間を見つけてやり続けようと思ったのです。

 年末年始の酵素風呂あんの長期休業中は自家風呂として父を入れ続け、温かいストーブの前で時間の許す限りマッサージをしようと思ったのでした。

 自分の妻の実家を継がすために私を養子に出した経緯、その後に起きた私をめぐるトラブルなど気持ちが良くなったタイミングで順不同に話し始める父でした。

 最初は私に対してみっともない言訳を言い始めているのではないかと思って聞き捨てにしていた私でしたがあながちそれだけではなさそうだと思い直したのです。

 10日間に渡ったこの奇妙なふれあいの間に父が語ったことは、父と母の結婚の経緯から今に至る父母と私との離隔がはっきり浮かんでくるような話の濃さでした。

 そして11日目、新年1月3日の朝、尿管結石で大晦日に緊急入院していた父は突然息を引き取りました。今回も母の時と同じに誰も臨終に間にあわなかったのです。

 前日、病院ベットで行った足裏マッサージでは初めてもう良いから帰れと言ったことが印象的でしたが多くのひ孫に囲まれ上機嫌であったことは確かでした。

 もう喪主で迷うことはありませんでした。慣れた手順で兄は完璧に喪主を務め葬儀は滞りなく終わったのです。

 四十九日までは一つの祭壇に二つの骨甕と二つの位牌、そして二つの遺影が仲良く並んでいます。その日までの仏事やその後の仏事も日を併せて一度に行うことも決まりました。

 二人の遺影写真は私が以前一緒に旅行に連れ出したとき写したものを強引に採用したことで自分の気持ちに整理がついたようです。

 事業創造でも誰かに望まれて生まれてきたものでなければマーケットは拓けないですが少なくても私自身も父母に望まれて生まれたのだと感じられたきれいな別れでした。

2011年12月17日

醗酵の館(4)

 我が醗酵の館の支配菌は好気性です。気前好く空気を鋤きこむことで元気溌剌しています。

 毎日、最終のメンテナンス業務のうち力仕事である空気鋤きこみのための攪拌作業はありがたいことに私に任せられることが多くなりました。

 館内がもうもうとした蒸気につつまれ身体中がぐっしょり汗まみれになっていく過程は今の寒い時期ほどうれしく感じることはありません。

 入酵中とは違う身体の喜びようを噛締めながら味あうことが出来る約10分間です。20分掛けてゆっくりと味あうことも出来るのかもしれませんが私は何時も10分以内で終わらせてしまうのです。

 脈拍が速くなり気持ちの好い鼓動を聞きながら大きく息を吸うとき大量の酵母が一気に体内に入り込んでいく感覚がうれしいのでしょう。

 昔、タッキーと一緒に潜った釧路沖の太平洋炭鉱を彷彿します。高温で湿度100パーセントは同じようなものでした。鼻の穴まで真っ黒になることは出来ませんが何か似ているのです。

 過酷な地底労働だと思っていましたがなぜか働いている皆さんはその環境が大好きだったのです。きっと今の私と同じで頭も身体もすっきりして気持ちが好かったのでしょう。

 微生物が喜ぶことだけ考えてひたすら鍬を振る時、頭は真っ白です。一日一回このような時間を持てる日が来るなどとはこれまで考えたことはありませんでした。

 妻たちが喜んでこの役割を独占しているものだと思っていたのですが最近では少し持て余していたのかもしれません。

 そこに良い鴨がやってきたようなものです。今の私には願ってもないことでありがたいことでした。

 だが高温醗酵による温浴を期待する私たちの目的はこのことで十分達成されてはいるのですが、これが本当に微生物にとって好ましい状態なのでしょうか?

 自然の摂理に則っているとは思えなくなってきた私です。自己都合にはすごくあっているのですが微生物たちには苦行を強いているのではないか?と考え始めるのでした。

 だって自然の状態ではこんなに高密度で高温醗酵はしないでしょう。自然はもっと疎ではないかと思うのです。

 やっぱり時々はゆっくり休ませてあげることが大事であり、そのために酵素風呂あんの休みは何時も長期間なのだと都合のよい理屈に落ち着く私です。

 と醗酵の館で考えることはこれまでの何でも有とは確実に違うようです。

2011年11月24日

醗酵の館(3)

 今月の半ば、久しぶりに遠方より黒部の私を訪ねてくださったお客さんがいました。

 積もる話があり過ぎてお互い言わねば損だとばかりに蓄積された話題を消化していました。

 粗方の話題が終わったと思われたそのとき件のお客さんは言われたのです。“今年は大変なことがいろいろありましたが私は本当に恵まれていると思います。”と。

 彼が言うには年初より信じられないほどの苦難が次々とやってきたため、必死にその解決を図っているうちに将来に対する光明がはっきりと見えてきてチャンス到来と実感できたそうです。

 そこでまた二人でそのチャンスを如何に活かすかを話し合うことになったのです。

 如何に優れたノウハウや経営資源を有していて、マーケットでも優位を保っていても、団結力、組織力で秀でた企業に勝つことは難しい。

 事業創造は信頼のネットワーク構築が優先するはずである。信頼のネットワークを構築するには、新しい概念の事業構想とその成功へ至る事業戦略、そして推進シナリオの提示が最低でも必要だなどとごたくを並べる私でした。

 醗酵の館の中で考える私の流儀では我々が支配菌となり日和見菌を信頼のネットワークに参加させることが成功の最低条件となるのです。

 「天時不如地利 地利不如人和」天の時は地の利に如かず。地の利は人の和に如かず。

 孟子が謂う通り、チャンス到来を受けて地の利の優位性を確実に確保するための我々の戦略を遂行するには人の和こそ最も大事だと二人で大いに盛り上がったのです。

 私の情報システム事業概念からすると当然なのでしょうが自然界では孟子様まで持ち出さなくても当たり前のことなのかもしれませんね。

 人間の生臭い欲望に絡んで微生物の働きを利用することが許されるのかと考えるのですが、所詮自分の都合で善玉や悪玉や日和見と微生物たちを区別する私たちから救いようのない業は簡単には消えないでしょう。

 これまで私の中では田畑の土壌中と人間の腸内は醗酵の館の中と全く同じ理屈の微生物世界でしたが人間社会も全く同じ世界だと改めて知らされました

2011年11月13日

醗酵の館(2)

 醗酵の館の中で無心になって考えいる時、今までの考え方と全く違う視点から発想していることがよく分かります。

 こんなにも面白いことがあるものだと毎日が楽しくなりました。色んなものを醗酵させてみるにはこの館の中ほど都合の良い場所はありません。

 なし崩しで実験を繰り返す私を咎めるより、自分も興味あることを試し始めた妻は低温調理に夢中です。

 地熱の地獄蒸料理が羨ましいと何時も言っていましたが自分の酵素風呂の中での醗酵熱による低温調理が面白くなってきたようです。

 それはさておき、私の発想の視点が大きく変わってきた最大の功労者は醗酵の館の主役である微生物です。

 人にとって都合の良い有機物の微生物分解を醗酵と呼び、都合の悪いものは腐敗と言ってきた私たちは醗酵菌を善玉菌、腐敗菌を悪玉菌とも言ってきたのです。

 だが自分を微生物に例えれば人間社会も雑多な微生物社会でもあるのです。自分が善いと考えることを行うのに理解を示した人を善人だと思うことは大きな勘違いなのです。

 自分が善いと思うことに反対したり、邪魔をしたりする人を悪人だと決め付けることもとんでもないことのようです。

 悪人から見て善人こそが悪人そのものなのでしょうね。単に立場の違いであり、自分の役割を粛々と実行したいだけなのでしょう。

 醗酵の館の管理者が善と考える菌の快適環境を整える努力によって管理者に都合のよい自分が善玉菌という菌が環境支配者になり悪玉菌を抑えて目的の醗酵状態へ導くのです。

 善悪といえば分かりやすいため自分の都合だけ考えれば何の疑問も湧かなかった発想法でしたが一寸管理者が気を抜いたり、手抜きした場合、たちまち異臭が発生し悪玉菌が活性化してきたことを知らされるに及び、その管理態度を是とすれば当然の帰結であるその悪玉菌優勢の環境こそ望んだ状況なのだと考えざるを得ないのです。

 悪玉菌がはびこる劣悪環境を退治すべきと張り切ってがんばる善玉菌は本人の想いは別にしてその安定した腐敗環境に安住する多くの日和見菌からはとんでもない迷惑菌なのでしょう。

 人間社会と同じで微生物社会のマジョリティは日和見菌です。支配菌が変わればどのようにでも柔軟に変質していけるのです。

 事業創造もそこまで菌世界を知り尽くす必要があるのではないかと入酵時の転寝の中でぼんやり考える私です。

2011年10月25日

醗酵の館(1)

 酵素風呂資材の余りを畑の土壌微生物増強に役立てようと世間一般の米糠ぼかし作成セオリーから外れた我流ばかし製造に嵌っています。

 夏の真っ盛りにやれば醗酵はいとも簡単ですがこれから冬に向かうこの時期は夜間の気温低下が堪えるのです。

 我が家には乳酸菌を中心として一次醗酵済米糠まぶしのヒノキのオガ粉が常備されていますからそれを一寸失敬して活用しない手はありません。

 何しろ既に微かに酒の香が漂っているわけですから簡単に大量のぼかしが複製増産できるはずなのです。

 だがやっぱり夜間外気の冷たさは微生物には堪えるようで車庫の中に置いたとはいえ、思ったようには初日からの温度上昇は認められませんでした。

 湯たんぽか電気マットで加温でもしようと考えました。妻に小型の電気マットの仕舞い場所を尋ねたところ、“お風呂の中へ入れれば簡単ね。だが今は邪魔になるから止めて。”と拒否されました。

 最適な答えがあるのに邪魔だとの一言で片付けられたのです。結局、電気マットは妻の教えてくれた場所にありませんでした。多分廃棄してしまったのでしょう。

 酵素風呂の片隅に押付けて置けば決してお客様の邪魔にはならないはずだと考え直し、妻には内緒で採寸を始めたのです。

 その日のお風呂のお手伝いさんは順子さんで、彼女に“何をするんですか?”と尋ねられたので、“この隅にあのプールを置こうと思うんだ。邪魔にならないよね?”と話しました。

 “一度に三人が薫香されるときは邪魔だけでここのところ大丈夫ですよ。良いんじゃないですか。”と現場責任者の許可が下り、妻に見つかる前に運び入れてしまったのです。

 お温度と湿気十分の酵素風呂は瞬く間に私のぼかし醗酵環境を改善し、3時間後には早ほんわかしてきました。そしてその日の営業終了時には完全な醗酵状態に入っていたのです。

 順子さんが許可したことでもあり、妻はあっさり現状を認めてくれました。彼女にとって酵素風呂の威力を確認できたことのほうがうれしかったのです。

 もういつでも畑に投入できる状態になってきた我流ぼかしは果たして期待通りの働きをしてくれるか?私にしたらこれで用が足りたならこれほど楽なことはありません。

 一寸欲しいと思ったときに、必要な分を製造できる材料、環境がそろっているからです。米糠ぼかし作りの常識にとらわれない種菌、酵素がふんだんに培養されている現状を農に利用しない手はありません。

 そんなうきうきした気持ちの朝食時、見ていたTVでインフルエンザ・ウィルス感染についての話題を取り上げていました。

 空気が極度に乾燥するとインフルエンザが流行し始めるといわれ、それも相対湿度ではなく絶対湿度がいくらかで決まるということでした。

 風邪に罹りそうな感じがしたとき、すかさず酵素風呂に入って安心したことは数多くありました。酵素風呂の部屋は熱気と湿気がむんむんです。

 今まで酵素風呂の中がどの程度の絶対湿度であるかなどとは思っても見ませんでした。思ったが最後、調べないわけには行かない私ですから早速ネットで乾湿計の読みから相対湿度・絶対湿度を計算するサイトを探したのです。

 温度と相対湿度と標高を入力すると簡単に演算し、表示してくれました。何とその時の容積絶対湿度が22.37g/㎥だったのです。

 仙台市の医師会のホームページからえた情報では11g/㎥以下でインフルエンザが流行るそうです。我が酵素風呂はインフルエンザ・ウィルスが生存し得ない極悪環境だったのです。

 そのサイトでの計算結果から、二つの不快指数が表示されていて「暑くてたまらない」、「ほぼ全員が不快」となっていました。

 目的意思がはっきりしている人には不快ではないと信じますがインフルエンザ・ウィルスには確実に全員不快なのでしょう。

 このことを妻に告げるとうれしそうに笑っていましたので当分私の醗酵の館利用は許されることでしょう。

2011年10月20日

楽して農

 日の出が遅くなったせいで私の朝食前スケジュールは非常にタイトになってきました。特に昼間が晴天になりそうな朝は最近気に入っている酵素液の葉面散布仕事が割り込んでくるのです。

 朝の早かった初夏などは余裕で途中の道草が出来ましたが今は地域の情報が全く入ってこなくなりました。

 兄が少し離れた田んぼを果樹園にして張り切っていたところへも寄り道することも絶えてなくなりました。

 このことを少し気にしていた私は休日の午後、遠くから軽トラがあることを確認して彼の果樹園へ出かけたのです。イチゴの苗を分けてもらうことを口実に考えるのは少し無理があるのかもしれません。

 “イチゴの苗、余っていないか?”と声を掛けながら10アールの兄の果樹園に入っていきました。私が彼のフィールドに入っていったときは何時も兄は多弁です。

 イチゴの苗のことは後回しで彼が今抱えている難問を一気に吐き出すのでした。如何に今が急がしくて仕方がないかを言っているようなものでした。

 そして作柄が思わしくない状況を一つ一つの果樹を順番に私に説明してくれるのです。あまりにもたくさんの種類を密植しているように何時も思えてしょうがない私ですが説明を聞きながら理解したのはその種類の多さは私の想像した以上だと言うことでした。

 何故そんなに手当たり次第に植えつけるのかが分からない私です。“今までやってきて簡単に育つ美味しい品種に絞ったら楽なのに。”と言っては見ましたが兄には通じてはいませんでした。

 苦難に打ち勝つための荒修行を続けているようにも思えるのですがどうもそのようでもなさそうなのです。

 活き活きと元気に育つ植物を見ると自分も元気になります。そのためにこそ多少の苦労をしても報われるものがあるはずです。苦労に苦労を重ねて元気のない植物を育てる意味がどこにあるのかはっきり兄を問質したくなるのです。

 プロの農家でも大変な果樹栽培ですから、素人が多品種密植栽培しても上手く行くはずがないとは思わないのだろうか?果樹が活き活きと育つ環境を少し整えることぐらいしか人が手伝えることがないのに自分が育てていると思っているのではないだろうか?

 と考えていくとうっかり尋ねることが出来ないのです。結局、イチゴの苗を分けてもらうことだけで帰ってきました。

 楽して出来るものを見つけて行くのが私の農でしたから、一番矮小なイチゴ苗が放任でどこまで頑張れるかをみてみたいと思いました。

 ハヤドリ白たまねぎのために用意した自慢の微生物リッチな畝をイチゴのために明渡すしかありません。

 私にとってイチゴは栽培するパフォーマンスが合わず、気に入ったものを欲しいときに買うものだという宗旨があったはずなのにです。

 私には理解できない兄の農園の中にも私には見えない農の論理があり、彼の愚痴にも十分な付加価値があるのかもしれないと思う私でした。

 いつか兄が言っていたことに「嫌になってやめたいと思うが、そうするとやることがなくなるから。」がありました。

 兄は嫌になるほどのことをしなければ時間が余るのかもしれません。時間がない中で、したくない農をやらねばと手抜きの楽して農を探す私とは目的が全く違うのかもしれませんね。

2011年10月13日

秋の夜長に思うこと

 今頃は暑くもなく寒くもない最高の夜です。漸く虫の音が美しいと感じられるようになった私には特に夜の長さがありがたいです。

 そこそこの時間で暗くなり朝は早起きしてもまだ暗くてすることがありません。夕方6時から朝の6時までの12時間が夜なのです。

 この時期になると何時も思うことは“日本の田舎の秋は豊かだ。”ということでした。私がセカンドライフを半農半コンで行こうと決めたのも10年前にこう感じたからでしょう。

 USAネットワーク事業を形にしたいと思ったのも、あまりにも豊かな自然の恵みであふれかえっている日本の田舎に感動したからでした。

 あまり物ドットコムを立ち上げようとNSIネットワークスを動員したのも今では懐かしいことですが仕組みは違っても何時かは実現したいと思い、決して諦めたことではないのです。

 丁度10年前の秋の夜長にタッキーから貰った“秋の夜長のご報告”メールへ返信した文章がCMSから出てきましたのでその一部を載せます。


 秋が深まったせいか最近の私は週末の過ごし方が少しかわりました。一日は農水産物の調達を兼ねて妻と隣県の田舎を訪ねることに使い、もう一日私はそれらの加工処理の試行にあて、妻はその試作品の配達で忙しそうです。

 勿論ただのものですからそれほど厳しい評価は返ってきませんが、満更でもなさそうです。最近の作品のなかでは籾殻を薫煙材にした鯖の燻製などは好評です。

 つくづくと日本の田舎は豊かになったものです。人の心も大らかになったのか1000円も買うとその何倍もおまけしてくれます。作ったり獲ったものの大半が出荷されずに処分されているようです。

 一次産業が趣味の狩猟や園芸となっている部分が多々あることが強く実感できるこの頃です。私の材料調達コストの大半は高速料金ですが輸送コストを別の価値(観光ドライブ)で償却できていますので負担は軽いものです。

 本当においしい物が有り余っているのに、まだまだ海外から規格化された食品が安く大量に輸入されてくる日本です。何か工夫や発想をかえるか、または価値観を変えれば面白いのにと思うこの頃です。
 
 在宅介護が目の前に迫っていた時期ですが私たちは十分に人生を謳歌していたようです。また同じことをしたいとは思いませんが、もうしばらくすればまた違うサードライフが始まるような予感はするのです。

 それはこの10年、ここに自縛されているという思いから、この地の知られざる価値を発見することが出来たと思えるほどの心の変化があったからです。

 単なる思い込みかもしれませんが現時点ではこれまでの自分の考えを大きく変えるくらいの変化なのです。

 遠くまで出かけて感激したことは貴重なことでしたが周囲一里のうちにもたくさんのご馳走があふれていることに気づいたことが私にはもっと嬉しいことでした。

 見知らぬ土地の秋の恵みを見てみたいと思う気持ちは十分ありますが見てるようで全く見ていない自然の恵みがまだ一杯あることを知ったような気がしている今は、耐えられるのです。

 と、秋の夜長はどうしても感傷的な思いにとらわれるのでしょう。朝になるとまた全く違う考えに支配される私です。

2011年10月06日

アオサギのビジネスモデル

 少しずつ片付き始めた私の畑は見通しが利くため、慣れるまで居心地が悪くなったようです。

 巨大な草の山が表と裏に二つも出来たのでその山の陰になるところに腰を下ろしたときぐらいしか落ち着かないのです。以前はどこでも腰を屈めると通りからは見えなくなっていました。

 そんなことを考えながら来年の畝作りのために夏野菜の残渣を片付けていたある朝でした。裏の通学路から女性の声で呼びかけられたのです。

 “今、鳥がねずみを咥えて飛んで行ったよ。咥えられた子ねずみがキーキー鳴いていた。”と興奮して言われるのです。

 私の畑の隣にあるラーメン屋さんから用水、そして通学路をはさんだ向こうに住んでおられるおばさんが、鳥がねずみを捕まえて飛び去るのを見て感動したのか驚かれたのか誰かにそのことを伝えたくてしょうがないという感じでした。

 何時も一緒に早朝ボランティアで公園掃除をしている隣のおばさんが見当たらないので私でも代わりになると思われたのでしょう。

 鳥の姿かたちを説明されるのを聞くとその鳥はいつものアオサギのようでした。前日も隣のラーメン屋さんの裏口の草むらに静かに佇んでいるのを見ていたからです。

 一頻り話し続けた後、おばさんの興奮状態は漸く治まったようです。要するに彼女はそのアオサギは何時も見かけてはいるがここにやってくる目的がネズミ捕りであったことを発見したことにより感動しておられたのです。

 そしてネズミが何時も向かいに居ることを知り、自分の家の戸締りを心配しはじめました。

 ラーメン屋さんの物置を根城に夜な夜な我が家の畑に出没し、野菜を失敬していく数匹のネズミ家族がいることは承知していた私ですが嫌々ながらも一定の取り分は認めていたのです。

 最近はネズミの好物も畑から消えたので、どうしているのかと心配していた時に子ネズミが生まれていたとは私にはこちらが感動的でした。

 さすがのアオサギでも大きな親ネズミは捕らえることは難しいでしょう。私の畑でじっと佇んでいた夏の日には何かを捕獲したらしい現場には出会うことはありませんでした。

 昆虫ぐらいが獲物だとしたらいくら草深い私の畑でも人が出入りする鬱陶しい場所を敢えて猟場に選ぶパフォーマンスが分からなかったのです。

 ネズミが繁殖している住処の近くに何時も出勤して子ネズミが散歩に出てくるのをじっと待っていたとしたらすごいことです。

 ネズミは環境さえ良ければそれこそネズミ算で殖えます。だが私が感じている限りは急激にチュー口が増えていません。

 だとすればかのアオサギの猟とネズミの繁殖はバランスが取れているのかもしれません。捕り過ぎないように調整した育てる狩猟をアオサギは私をも利用して営んでいることになります。

 確り私がネズミの食べる分も作っているかアオサギに見張られていたのでしょうか?人の気配が濃厚なところでふわふわと落下傘みたいに下りたり飛び上がったり出来るアオサギが新しいビジネスモデルを開発したように感じる私でした。

 私にとってネズミに見向きもされない野菜ではしょうがありません。少々の食味検査で採られたとしても食い尽くさないビジネスモデルが出来上がっているとしたら私はこれに乗ります。

 あとは雉さんにもこのビジネスモデルに加わって貰うことをアオサギさんと相談したいものだと相変わらず能天気な私です。 

2011年09月30日

秋になって考えること

 あの灼熱の夏に考えていたことは今のすがすがしい秋には似合いません。私が夏にどう考えていたということは別にして今涼しくなってからの考え方は少しまともになってきたかもしれません。

 力任せに弄くっていた畑も雑草が枯れ始め、落ち着いて整理整頓するゆとりが出てきました。一寸片付けた後に考えるといろんな選択肢があることに気づくのです。

 そうすると来春に向けての畑の作付けシナリオが面白いように浮かんできます。やっと楽しい半農が蘇ってきたと言えるのでしょう。

 東日本大震災と私の事業創造がこれほど密接に繋がっていたと考えられるのは、このほっとした小さな秋を実感しているからでしょうか?

 だがこの半年ほど思ったこと考えたことをそのまま事業創造考にかけない時はありませんでした。誰の意見を聞いても読んでももっともだと言わざるを得ない優等生の意見です。

 本音をうっかり言ったら最後、さっさと表舞台から退場させられた人は政治家だけではないでしょう。そうなりたくないから慎重になるのではありません。

 本音で言っても本音で返ってきていると思えなくなり、何が本音なかも分からなくなっているのです。自分の本音がはっきりしているのに相手の本音が分かりづらくなったからです。

 極端な例ですが“被災者だとしたら何でも許されるのか?”という素朴な疑問が湧く身近な出来事に多く出くわすことがあったからです。

 切羽詰れば何でもありであるとは決して思えない私には本音がそこにあることが明らかな相手とむなしいやり取りをすることからも逃げるのは秋のせいだと思いたいのです。

 あれほどの大災害ですから直接の被災地域だけでなく日本の現実や人の心のありようを都合よく包み隠くしていたものをきれいに剥ぎ取っていったようです。

 少子高齢化と過疎の問題、医療と介護の問題、農林水産業にかかわる食料自給の問題、エネルギー政策の問題などがまとめて裸にされ、財政が破綻状態の上にまだ巨額な復旧復興財源手当ての問題が圧し掛かって来ては誰であっても答えを出しきれるとは思えない私です。

 国や誰かにどうにかしてもらおうでは立ち行かないことは明らかです。自分のことは自分で解決するなどと言うのはきれい事ですかね。

 自立支援とセーフティネットの境目が見えない政策ばかりで、それに慣れすぎた社会は貰えるものなら貰えるだけ貰うのが当然だと考えるのが常識なのでしょうか?

 震災直後から地域復興より地域創生だと正論が述べられていました。だが現在具体的に論議されていることは復興費用であり、創生に対してはせいぜい金の全くかからない経済特区の設定ぐらいでしょうか。

 身一つで生き残っても再興できる健康や知識・知恵、信念・自信・勇気の保持は創生の原資でもあります。だがこの財産の蓄積は泥縄で金をつぎ込んでどうなるものではありません。

 日本の創生や被災地域の創生も結局は個人が自立して実行するしかないのでしょう。そうしたいと思う個人が自己責任でやった結果の総合成果が創生に違いないと思います。

 格好よく言えば“国が何をしてくれるかではなく、国に対して何が出来るか?”でしょうか。そんなことが被災地だけでなく日本全体の個人が問われているのに誰かの責任にすることで紛らわせているような気がしてならない私です。

 そして創生ニーズのないところに創生はありえないと能天気に思えるのはやっぱり秋のせいかもしれませんね。

2011年09月08日

文明とは何か?

 3.11東日本大震災以降、これまで自分がやってきた事業創造が一体何の意味があったのかと考え込むことが多々ある私です。

 ロケーション事業の盟友、田中さんもこれまでがむしゃらにやってきたことに疑問を感じ、やるべきことの本質が間違っていたことに気づき、このままでは人生の時間がないと言っていました。

 そして何かが変わったようです。これまで大事にしてきた自分の役割を降り、残りの人生において果たすべき役割を再構築しているように見受けました。

 彼ほどの思い詰め方ではありませんが私もこれまでのロケーション事業における自分の役割に疑問を投げかけてみようとしていたのかもしれません。

 そんな時、今こそロケーション事業だと思い込めるユニークな文章に出会ったのです。それは先月、日経新聞に載った建築学者の意見でした。

 それは建築家で東大教授である隈研吾氏の語る文明論であり、その文明の決定的な転換点が3.11東日本大震災であるというのです。

 文章の出足で述べられている文明とは何か。様々な定義の方法があるだろうが、災害から人類を守るために人類が発明した、対災害システムの別名が文明だと考えている。には建築家はこのような思考をすることが出来るのかと驚きました。

 今まで問題がありながらこれまで続いた現文明は何時どこで興り、どのようにして破綻してきたかが建築家の視点や言葉で表現されると非常に新鮮で共感を感じたのです。

 そしてこれから興隆するであろう新たな文明は、例えば人とのきずな、仲間とのきずな、そして大地とのきずな、自分を育ててくれた場所と自分とをもう一度つなげて見ることから始まると。

 まさにロケーション事業の基本概念で私と田中さんが述べていることそのものではないかと思えたのです。我田引水的であることは当然否めませんが。

 隈氏ははっきりと3.11東日本大震災によって、1755年11月1日、ポルトガル・リスボン沖で発生した大地震そして大津波災害をきっかけに勃興した現文明が終わったと認識すべきだと言っているのです。

 だとすれば災害には無能と化した現文明の論理で復旧・復興することの矛盾をもっと世に訴えて欲しいものです。

 文明とは必ず滅びるものだと思う気持ちを突き詰めていくと文明に頼らない対災害システムとは一体どのようなことなのだろうかと相変わらず変な思考に入り込む私でした。

 はっきりとは言えないのですが現時点で私が思うのは災害と如何に対するかについてだけはおぼろげながら固まってきています。

 それは自然と戦うための防災という立場はとらずあくまでも避災に徹するということです。言い換えれば身一つで生き残っても再興できる健康や知識・知恵、信念・自信・勇気を維持できる楽天性に投資を重ねる習慣を持つことかもしれません。

 こんな話を田中さんとしていると、彼は“私は神社仏閣などの史跡をロケーションしたいと思っているんだ。”と言いました。

 彼の話から考えると長い年月に亘って学ばれた地域の歴史的な知恵の集積地が史跡であると言いたいようです。どのような災害に対しても長年の知恵が生き残る地域で一番安全なところに立地しているのが史跡だと言うのでしょう。

 四次元ロケーション業務に取り組むきっかけになりそうな雰囲気を感じた私でした。850年前の越中大震災に続く大海嘯によって受けた災害跡とそれでもなお生き残った史跡はどうなのか?

 そこに残った知恵は現在地域に生かされているのか?と、相変わらず能天気な私です。

2011年08月25日

続・半農の新展開

 お盆までの灼熱が嘘のような涼しさが続きます。雨が間断なく降り、近年にない作柄だと大満足だった我が家のコシヒカリにも日照不足の懸念が生まれてきました。

 例年になくイナゴの数が多いように感じますが刈り取りまでに稲穂が食い尽くされないよう祈るような気持ちで眺めるようになってきたようです。

 前回書いたお盆前の日曜日におけるニギス漁は私のビギナーズラックもあり、絵でも描きたくなるような宝石よりも美しいたくさんの魚体をクーラーに積み込みました。

 早々に帰港し、干物つくりにかかりたいと思っている私の気も知らず、信一君は餌があるから帰り序に鱈釣りを一回やって帰ると言うのです。

 “時間は大丈夫なんだろう。まだ早いから一寸寄っていこう。”と船を全速にして漁場を変えるのでした。

 彼の船は最大速力は26ノットだそうですが、そのときは最速に近い速度ではなかったでしょうか。日が高くなった海には漁をしている船は全くいませんでした。

 全速で走る自分の船と語らうような顔でうれしそうに舵を握っている信一君は私には行き先を告げず一気に新たな漁場を目指しているのでした。

 漁港沖を過ぎても速度を落とさず北に向かって行きました。そして行き先は黒部川河口の沖合いのようでした。

 沖合い2kmぐらいのところで船を止め、餌の蛍烏賊を取り出し、新しい仕掛けにかけ始めました。この間私の仕事はなさそうなので河口から流れ出している黒部川の水と富山湾を回遊している流れが織り成す面白い模様を見入っていたのです。

 “河口からの距離の違いによって海底にいる底物が違うんだ。多分真鱈がいると思うが釣れなくても勘弁してくれ。”と私を楽しましてくれようとしていることが良く分かったのです。

 最初に投げ込んだ仕掛けは250mの海底についたようです。海流のスピードを測って糸の張りを調整するため例によって船を細かく前後に動かし始めました。私は指示通りリールを巻いたり緩めたりしながら当たりを見逃さないように竿先を睨んでいたのです。

 かなり大きな最初の引きを見逃さず信一君に伝えましたが彼はもう何匹かがかかるまで待つつもりのようでした。

 数回の引きを確認した後、巻き上げ開始の指示を受けスタートボタンを押したのです。竿の先が海中に引き込まれ、かなりの大物がかかっているような期待が膨らむ状況だったのです。

 数分後に巻き上げスピードは落ちそして停止しました。急いで竿を立て糸を引き寄せそれを信一君に渡し、私はタモを手にして待ち構えるのでした。

 まず最初にグレーの斑模様をした今までのニギスから見ると巨大な魚体が浮かび上がってきたのです。真鱈でした。

 鱈とは字のごとく冬のものかと思っていた私にはこんな真夏に鱈が獲れるとは考えられなかったのです。だがまさに真鱈でした。この夏の日で一気に干せばさぞかし旨い干鱈が出来るだろうと早速想像する私でした。

 その下には大きなカレイがそして綺麗な黄金色をしたハチメ属のガンゾウが続いてあがって来たのです。

 三度ほどこの仕事を繰り返すともはやクーラーには入りきらないほどの豊漁でした。“もういいか。”と信一君は言いましたが言われなくてももう帰るしかありません。

 朝飯抜きでやってきてもう昼になっていたのです。揺れる船にずっと立ちっぱなしでいるのもずいぶんと腹が減るものですね。

 底物は魚群探知機に映らないので勘と想像の世界のようです。黒部川が押し流す大量の有機物、海底から噴出す伏流水、湾に流れ込む寒流や暖流が相まって多分多くのプランクトンが発生しそれを求めて多くの魚が集まっていることをイメージすることは容易でした。

 広大は河口領域のなかで彼のGPS画面には長年のノウハウがインプットされているからこそこんなに簡単に目的の獲物がゲットされたのでしょう。

 私が今から漁師を目指したとしても海底をそのままリアルに可視化できる装置が開発されない限り死ぬまでやっても一人前にはなれないだろうと思うのでした。

2011年08月08日

半農の新展開

 コシヒカリが出穂の時期を迎えました。毎日十分な水で田んぼを満たす必要があるため朝晩の水管理がうっとうしくなって来たのです。

 何がうっとうしいかと言えば各田んぼが一斉にたくさんの水を要求し始めるので一時水不足状態に陥るからです。

 自分が好きなタイミングで水の引き込みができたこれまでとは様変わりです。地域全体の水需要を想像して自分の田んぼに何時水を張ることができるかを考えられないと何度も田んぼへ出かけていかなければならなくなるのです。

 今年は早めの夕方に水を張る戦術にしてからは早朝の予定が大きく変わってきた私でした。あまり早く田んぼに行く必要がなくなったのです。

 そのため夏野菜の収穫や冬野菜の植え付けの準備などに十分時間が割けるようになりました。少し時間を持て余すぐらいの余裕もできて来たのです。

 昨日の日曜日はいつも通りに起床して作業着に着替えて家を出ようとしたのですがふと気が変わり涼しい居間で再度横になってストレッチを始めたのです。

 そこで私の携帯が鳴りました。こんな早朝に誰だろうと思って手に取ると珍しく同級生の信一君からでした。

 "おはよう。今何している?田んぼを探したがいなかったので電話したんだ。”と言うのです。"畑の隣で夏祭りの片付けが始まるから行きたくないと思って考えていたら田んぼに行きそびれたんだ。”と答える私でした。

 “俺もそうなんだ。係りではないが気まずいからな。こんな日は海にでも出ようと思って久しぶりにお前を誘ったんだ。ニギスを釣りに行かないか?”と畳み込まれました。

 ニギスと聞いては断れません。我が家では一番の大好物のご馳走なのです。その日の予定をすべてリセットした私はお盆に向けて庭掃除の仕上げにかかった妻に“漁に行ってくる。”と伝えて軽トラを動かして彼の船が係留されている漁港の岸壁に向かったのです。

 あっそうと軽く聞き流した妻はほとんど意味を理解していなかったようです。

 漁港の前の広場は早朝なのに大勢の人が詰め掛けていました。リサイクルの収集日だったようです。

 車や人を掻き分けて漸く信一君の船まで辿り着くことが出来ましたが彼はすでに出港準備を終え、私が来るであろう方向を見て探しているようでした。

 混雑を避けるため大回りしたため彼が思っている反対の方角から現れることになってしまったのです。

 後ろから声を掛けたわけですが一寸びっくりしましたが直ぐに笑顔で“出港だぞ。”と叫びました。港の中は少し水位が高そうでしたが何とか旋回橋を動かさずとも海に出れたのです。

 私が橋桁との離隔を探りながらOKを出しつつ注意深く潜り抜けた後は軽快なエンジン音を響かせて一気に魚場へ向かったのです。

 彼の船には旧式ですがGPSと魚群探知機が装備されています。そして彼が長年集めたポイントがしっかりマーキングされているのです。

 漁協組合員でもあり正式な漁船登録された船を漁港に係留している彼は兼業とは言え漁師なのです。だからその日の私は漁師見習いの実習生かもしれませんでした。

 面倒見のよい信一君は私の質問に丁寧に答えてくれました。そして多分私が知りたいと思っているようなことを次々と話してくれるのでした。

 最初のポイントは“海辺の森林浴あん”の沖合い1500メートルぐらいでしたでしょうか。ここは200メートルぐらいの深さですが数十メートルの範囲で複雑に起伏しているようでした。

 私が何時も興味を持っている真鯛の好漁場である場市の堤を越えた辺りだったのです。ここに至るまでの間に魚探に写る海底のプロファイルは明らかにその堤を現していました。

 信一君は電動リールをセットしニギス釣りに最適なサビキを取り付け私に声を掛けました。“これから群れを探すから詳しく説明するよ。”と。

 セットされたポイントの回りを動きながら魚探に写る絵を指差して私に説明するのです。“こちらは高周波の画像でこっちは低周波の画像なんだ。両方に同じような絵が写ってくればニギスの群れがいるはずなんだ。200メートル下に錘がつく前に群れは動くから群れの画像が現れ始めた直ぐに糸を落としてくれ。”と私の役割も与えていました。

 “最初は上手くいかないだろうがまず一回やってみよう。”と私の訓練が開始されたようでした。彼の合図とともに電動リールのギアを解放すると糸は一気に海底に向かって滑り落ちていくのでした。だが200メートルは長いものです。

 “あーあ、群れが離れていく。”との信一君の声を聞きながら早く海底に着けと祈るような気持ちでリールの表示を睨む私だったのです。

 糸が緩み海底に錘がついたことが確認できると直ぐにリールを巻けてとの指示が飛んできました。急いで糸の緩みがなくなる程度に10メートルぐらいを巻き取った時には彼は盛んに船を小刻みに動かしながら糸を垂直になるようにコントロールしているようでした。

 船を立てると言うそうです。これが上手く出来てこその一本釣り漁師なのでしょう。そのとき私の目にはロッドの先が何度か引いたように見えたのですがよく解りませんでした。

 しばらくして“もう少し棚を変えて見よう。少し巻き上げてくれ。”と指示されました。そしてその後は下げてみたりと私にリールの操作を教えているようでした。

 “一度あげてみよう。”と指示されて一気に巻き上げボタンを押す私でした。これもまた時間のかかることでした。これでは相当たくさんいっか釣りされてこなければ漁師家業は成り立たないですね。

 10メートルぐらいに近づくと自動で減速し2メートルで停止するように出来ているようでした。“竿を立ててくれ。”と指示され糸が手で手繰れるように船に近づけるのでした。

 漁師にもビギナーズラックはあるようです。掛かっているはずがないと思っている信一君もびっくりするほど針度とにきれいなニギスがかかっているではありませんか。

 最初の当たりはほんとうだったようです。きらきら宝石のように輝く様を見て手釣りのニギスは高値で売れることを実感した私でした。

2011年08月02日

真夏の夜の語らい

 先週末であり先月末でもある7月最後の土曜日は恒例の海上花火大会が開かれる予定でしたが通常では毎月最終土曜日曜はあるクライアントとの開発会議を持つことになっていたのです。

 ですからその当日は会議の後、当然クライアントを誘って裏の海岸で缶ビール片手に花火見物をしようと決め込んでいた私です。

 7月初めの土曜日に小学校の同級生の一人が突然訪ねて来ました。その花火大会の時間に近くに住む仲間達と一杯飲もうと誘いに来たのです。

 “急に思い立ったが、一寸声を掛けたら20人以上が乗ってきたんだ。良かったらあんたも是非来てくれないか?”と言うのです。

 “まだ確定していないが多分何時もはその日に仕事があるので悪いが無理だと思うよ。”と答え自分としてはもう断った心算でいたのです。

 それから1週間が経ち、すっかりこのことを忘れていた私でしたがその彼がまた訪ねて来て“予定はどうなった?”と尋ねるのでした。

 “段々、参加者が増えてきたのでやっぱり出席しないか?久しぶりに皆もお前の顔を見たいと言っていたから。”と嬉しいことを言うのでした。

 “予定がまだ決まらないのなら一応出席としておくから如何しても駄目なら信一君か誰かに連絡してくれれば良いよ。どうせ遅くまでやっているから遅れても構わないから是非来てくれ。”と凄い交渉力でした。

 偶には良いだろうなと思いながら翌日、件のクライアントに確認のメールを打ったところ何と私の思い違いで今月だけは会議が行なわれないことになっていたのす。

 その開発会議には私も凄く力が入っていたので一月抜けると決めていたことすら頭から消えていたようでした。

 そんなわけでクライアントとの会議後の懇親会で盛り上がるはずだった海上花火大会の夜は何と30人以上の懐かしい同級生達との語らいに変わったのです。

 こんなに沢山の幼馴染が歩いて行ける範囲に住んでいながら毎日の暮らしでは殆ど顔も合わせることがないものなのですね。多分歩いていないからです。

 同級生の1/5ぐらいが人望ある幹事が一声掛けると直ぐに集まるのだと感心しきりの私でした。私の場合は一声でなく二声以上だったのかもしれませんが。

 ビールや酒がまわり、てんでに話し始めた声は空間を唸らせ収拾のつかない昔の自習時間のように思えてきたのです。

 自分の周りにいる数人と取り留めない話を続けていたときふと誰かの強い視線を感じました。それは私から一番遠い場所に座ってこちらを見ている懐かしいC君だったのです。

 私の手招きに応じてC君はグラスを片手に私のところへやってきました。間を割って椅子を一つ入れ、彼の席を作って改めて乾杯しました。

 小学校のころからおしゃれでシャイでユニークなC君は今もまったく変わらず昔のままなのです。私自身はまったく変わったと思っていますが彼ほど変わらない同級生はいないでしょう。

 私の側が居心地が良いのかその後、何時間も動こうとしませんでした。私が誰かと話しても暫くすると彼と二人だけしか通じない懐かしい思い出話に戻っていくのでした。

 小学校時代のある時期、私と彼は毎日のように放課後を一緒に過ごしていたのです。校下のあちこちを冒険しながら暗くなるまで遊びの開発に余念がなかったことがはっきりと思い出されてくるのでした。

 彼は私以外の友を自分で誘って仲間に入れることはまったくなく、私が誘わない限りメンバーが増えることはなかったのです。

 たまたま近くに寄ってきた当時何時も私が遊んでいた友にそのことを確認すると当然のように頷くのでした。そしてそのことをC君も当然のような顔で頷いているのを見て笑えて来る私でした。

 野生のウサギの捕まえ方、野鳥の捕獲の仕方、素手で色んな魚を捕えることなど思いつくことを試してみるのは楽しいことでした。彼と私は何時もそんなことをして日の暮れるまで遊んでいたのです。

 その時々で足りない人手を私が集めていたのかもしれません。だがその時の遊びには何か一本筋が通り徹底していたような気がします。そしてその筋はC君が通してくれていたのだと思います。

 そのような毎日が何時なくなったのか今は思い出せません。確か彼とは中学時代には遊んだ記憶がないのです。別に仲違いをした覚えもありません。

 “今如何しているんだ?”と尋ねる彼に“口で言っても判らないから明日時間があるなら家に来ないか?バスタオルを一枚持って。”と答える私でした。

 細かいことを問わずに頷いた彼は約束通り翌日曜日の午前中、“海辺の森林浴あん”へやって来たのです。

 アルコール抜きには頗る効果的な午前中の入酵を振舞った後、すっかりご機嫌顔な彼とお昼を過ぎても互いの近況を伝え合ったのです。

 二人の間にはあの子供時代に共有したワクワクする遊びの自創がもう一度始まるような予感が高まったことだけは確かなようでした。

 明日が来るのが待遠しく感じながら気持ちの良い疲労感に包まれて眠れたあのころが懐かしい限りです。今でも変わらないじゃないの言われそうですけども。

2011年07月30日

事業創造に若さは不可欠

 半農半コンで事業創造が趣味のような私ですが時には心が萎えて創造意欲が湧き起こらなくなることもあります。

 凄く重力の大きな星に移動した感じがして考える以前に身体が言うことを聞かないような状態になるのです。

 それは身体がというよりもきっと心が重くなっているのでしょう。そのうち直ぐに元に戻り何もなかったようになるのですがその時は何故こんなことを無理してやっているのかと考え、もう止めた方が世のためではないかなどと思っているのかもしれません。

 多分、若さが切れようとしている時なのでしょう。誰にでもあることなのでしょうが私にとってはあってはならないことが起きたような感じがして一層ショックが大きいのかもしれません。

 サミエル・ウルマンの青春の詩では若さについて真に判りやすく謳われていますが若さを失う原因がこれほどはっきりしているのですから対処も簡単なのではないかと思ってしまうのでした。

 人は信念と共に若く   疑惑と共に老ゆる

 人は自信と共に若く   恐怖と共に老ゆる

 希望ある限り若く     失望と共に老い朽ちる

 好きなことを好きなように出来れば良いと安直に考えているような私の半農半コンにはもともと信念や自信や希望などないのかもしれません。

 だとすれば疑惑や恐怖や失望も生まれる基がないのではないでしょうか?基がなければそれらが揺らいだ結果において生まれる疑惑、恐怖、失望はないはずです。

 そう考えると私が時たま感じる心の高重力状態は何から生まれるのか興味深いことでした。

 相変わらず変なことを考え始める私ですが、多分私の青春とは心の若さではなく馬鹿さなのではないかということでした。

 自分中心の思い込み、ありがた迷惑なお節介、自己満足から成り立っている新事業創造が実態なのに何処かで美しく変換された仮想の事業が自分の新事業だと思い込んでいるのかもしれません。

 その仮想の新事業に付き合いきれなくなった常人がとる普通の行動が私に疑惑や恐怖や失望を抱かせているのだとしたら一体如何なのでしょうか?

 若さではなく馬鹿さを機動力にした私の事業創造は信頼のネットワークに問題があるのかもしれません。

 だがそれに少しでも気づいたのなら馬鹿さを若さに転換する努力はしなければならないと思いました。

 如何したらそうできるのだろうかと真剣に考える玉ではない私のことですからまたまた安直な結論を導き出すのでした。

 若さも馬鹿さもどちらにも共通するのは惜しみない努力を続けることだ思いますのでささやかな自創成果について自分自身が謙虚であることで次第に信念や自信が生まれことを可能にするのかもしれないと考えました。
 
 そうすれば真の若さを手に入れる希望が湧いてくるでしょう。などと相変わらず自己都合で能天気なことを考える私です。

2011年07月21日

涼しいはずが暑くなる会話

 前回の早朝畑中会話の続きです。仕事の手は休めないが話の内容に合うように相槌を打っていた私に安心したのか身の上話を際限なく始めた50歳ぐらいの男性です。

 初対面の人に畑の中で身の上話をされた上でこれから自分が如何したら良いのかと迫られたのは私の人生でも初めてのことでした。

 余程話を聞いてくれる人に飢えておられたのでしょうか?傍聴者が電線上のカラスしかいない最高の場面で、台風も心配なくその上涼しいときていますから彼には堪らなく好ましい状況だったのでしょう。

 話が堂々巡りになってきたと感じた私はケリをつけなければならないと思い、“戦後の復興のような今の東北へでも行って一旗挙げると言うのは如何ですか?”と切り出しました。

 “仕事は一杯あるでしょうが旅費や滞在費などの先立つものがなければ身動きできない。”と連れない返事です。

 “何処へも行けないのならいっそ覚悟を決めて親御さんの農業を本気で受け継いだらどうですか。まだ若いんだからその気になれば地域の担い手農家として拡大することも出来るんじゃないの?”とまた話を変えてみる私でした。

 その時一羽のカラスが電線からキュウリの畝の側に降り立ったのです。彼は慌ててカラスを追い払おうと声を上げました。

 一本のキュウリをもぎ取り啄ばみ始めたカラスは彼の威嚇には動じることはありません。私が気にもしてないことが不思議なようで“如何して追い払わないのですか?”という彼でした。

 “そんなに沢山食べられる訳でもないし、それにカラスの食べっぷりを見たら今日のキュウリの味が評価出来るんだよ。”と答える私でした。

 その朝私が畑に行く前にカラスは既に何本かのキュウリを食べていたようですが私と彼の会話の間食事が中断されたので焦れていたのでしょう。

 気を利かしたのか一本のキュウリを咥えてカラスは何処かへ飛び立っていきました。遠くからだともぎ取って捨てられたようなキュウリが数本彼方此方に散らばっているように見えます。

 彼を誘ってキュウリの畝近くへ行きそのキュウリを3本ほど拾って彼の目の前に差し出したのです。

 3本総てのキュウリは皮だけを残して内側の実は綺麗に食べられていたのです。“これだけ綺麗に食べてくれれば本望だよ。多分今日のは随分旨かっただろう。”と少し自慢気に言っている私でした。

 “どうせ食べきれないほど採れるんだから少しぐらい食味検査の役得を与えてもいいんじゃないの。”と冗談を言う私の顔をまじまじと見ていた彼は突然笑い出したのです。

 “カラスが旨そうに食べる野菜が出来るようになるまでどれぐらいかかりますかね?面白そうですね。親から言われて嫌々やっていたから分かりませんでした。”と彼は考えようによっては農業も満更ではないと思い始めたようでした。

 “そろそろ仕事の準備をしなければならない時間だから私は切り上げるよ。”とこの会話を打ち切ることにしました。

 “ありがとうございました。勝手にお邪魔しました。”と元気に言って畑を出た彼の後姿を追いながら“頑張れよ。”と聞えない小さな声で言いました。

2011年07月19日

涼しい朝の会話

 台風6号が近づいています。今日の早朝は今にも雨が降りそうですが久しぶりに気持ちが良いほど涼しかったです。

 大雨が来ても大丈夫なように田の水尻を空け排水が上手くいくよう調整しながら鼻歌交じりで巡回していました。

 200メートルほど先に同級生の信一君を見咎めた私は順路を変え彼の側へ軽トラを進めました。彼は暫く私の近づきに気づかずジッと田面を眺めたいのです。

 “どうしたんだ?”と声を掛けて初めて気が付いたのか振り返って照れ笑いをしながら“色ざめが斑があって気に入らないんだ。”と言いました。

 “プロでも上手くいかないことがあるんだな。”と掛け合う私に“この前、何を撒いていたのだ?”と訊ねました。

 “色ざめが過ぎると隣の田圃の親父がうるさく言うものだから気休めに3号(典型的な追肥)をお呪いしておいたのさ。”と言うと彼は得たりとばかり次々と指導的な事柄をタップリと聞かせてくれたのです。

 ありがたいことです。年長の指導者は逆らったような独自栽培は許してくれませんが私の性格を熟知している同級生では最終的な判断は私がすると分かってくれていますから気が楽なのです。

 一人前の百姓談義にはなっていないことは充分分かってくれている彼は適当に私に逃げ道も用意してくれるのでした。

 限の良いところで“さてと畑へ行って台風対策と収穫を片付けるかな。”と彼に告げました。“キュウリが採れすぎてお互い大変だな。”と彼も思いなおしたようです。

 前回の台風2号の片割れに襲撃された我が畑の被害は甚大でしたが漸く復旧復興した現在は収穫に大童なのです。

 前置きが長くなったようですが今日は信一君との会話を言いたいのではありませんでした。畑で一通りの点検と補修、特に今は里芋の小芋の芽摘みと驚くほど巨大化した芋虫の駆除を行い夏野菜の収穫を終えた時でした

 少し時間が余ったようなゆとりを感じていた私はせっせとトマトの枝を支柱に固定する作業に没頭していたのです。

 何処かから誰かの声がするように感じましたがトマトの樹勢に視界が遮られ誰も見当たりませんでした。再度声が聞えたので畝の間から通路に出てみました。

 日焼けした男性が一人畑の通路に立って何か私に尋ねているようでした。“気が付かなくて申し訳ない。何ですか?”と改めて聞くしかありませんでした。

 “毎日朝、畑仕事をされているのですか?”と訊ねているのです。見れば分かるようなことを聞く変な奴だなと思いながらもトマトの枝を固定する手を休めずに彼と話を続けることになってしまったのです。

 彼は現在失業中で奥さんと子供とは別居中だそうです。そして自分の実家に戻って親のすねかじりでその代償で親の農作業を手伝っているとのことでした。

 昨晩、憂さ晴らしに飲みに出て飲み屋で知り合って気が合った相手が私の畑の隣でラーメン屋をやっていると聞き、実家に帰らずそのまま訪ねてきたと言っていました。

 こちらから訊ねることがないにもかかわらず次から次へと身の上話が始まったのです。隣のラーメン屋さんは休日明けで今日は休みのはずです。昨晩遅くまで飲んでいたのですから当分起きてくるはずがありません。

 仕方なく私は仕事を続けながら彼の話を聞くしかなくなってしまったようです。聞けば聞くほど現下の経済状況が彼の現在状況に投影されているような気がしてくる私でした。

 “ラーメン屋さんでもやろうと思って訪ねて来たのかい?”と問うと、“飲んでいるときはそんな風に思ったから来たのかもしれません。”と素直に答えるのでした。

 だが資金もない現状では簡単なことではないと思い直したそうで“私は如何したらいいんでしょうか?”とズバリ言うのです。

 とんでもない会話になってきました。畑で人生相談でもないでしょう。長くなりますので続きはまたにします。

2011年07月08日

発酵と腐敗

 最近畑の土壌の状態を見るのに素手で畝をさすりながら手を差し入れることが多くなりました。柔らかく指先を受け入れてくれる土は手にはこびり付かず叩いて払い落とすことが出来ます。

 だが中にはねっとりとして指の進入を拒むような畝は引き抜くと手のひらにべっとりと土が付いているのです。

 同じようにやっている心算でも何をどの時期に植え、その後どのように処置していたかによって随分違うものですね。

 土壌菌に話しかけ彼らの快適生活を支援する心掛けによって土壌が見違えるほど違ってくるのでしょう。

 妻が言うにはこちらの気持ちのありようで有用菌が元気になって発酵を開始したり、腐敗菌が主役になって土壌環境が腐敗状態になってしまうというのです。

 あまり本気には受け取っていなかった私ですが最近は一理あるのではないかと考え直し、及ばずながら土壌に話しかけることを始めてみました。

 如何しても野菜自身に直接話しかける調子になっていたのを植物の根と絡み合って蠢いているであろう微生物達に語りかけようと慣れないことを始めたのです。

 偶然にも気持ちの良い発酵状態を維持している畝ではこちらも楽しくなるぐらい手のひらを通して微生物の鼓動が伝わってくるような気がするのですが触ると大きなミミズが吃驚して飛び出してくる腐敗状態の畝では土の匂いまで芳しくありません。

 だがミミズたちは私の至らなさを全身でカバーしているのではないかと思えても来ます。発酵に至らない未熟な有機物を休むことなく食して土壌改善に励んでいてくれるのでしょうから。

 せっかく私のために支援してくれている彼らですがその土壌に植えられたキュウリやズッキーニなどには大迷惑なことなのです。

 丸々と太った大ミミズはねずみのご馳走になるわけですから畝の中は彼らの狩猟トンネルと化してしまいます。毎朝埋めても埋めても翌日には確りと再生されています。

 根元はくすぐったいを通り越しているでしょう。ミミズが仕事を終えるのが先かねずみが彼らを食べつくすのが先か?私には関われない世界がそこにはあります。

 発酵状態の土壌ではミミズはほとんど用無しですからねずみも訪れることはありません。私にとってはこれほど心が休まることはないのです。

 この畝で育てている限り?が付くような野菜は育たないと自信を持っているのですが如何したら腐敗を経ずに発酵へと至ったのかは未だに理解できない私です。

 事業創造でも事業環境を発酵状態にすることが大事なことであるに違いないのですが発酵と腐敗の分かれ目がいまひとつよく理解できないのです。

 だがその環境が発酵なのか腐敗なのかは直ぐに解るのですが腐敗状態から発酵状態に切り替えるミミズのようなキャタライザーはいないものでしょうか?

 発酵状態の芳しい匂いを一度でも嗅げば腐敗状態は直ぐに認識できるものですが所詮発酵や腐敗は人の都合で決められるようなものかもしれませんね。

2011年06月22日

続・鯛や平目

 これにて戦国時代後期からの我が“海辺の森林浴あん”の古代ロマンを探る糸口が田村家の歴史書を手繰ることで開けてくるのではないかとほくそえんだ私でしたから次の手がかりを手に入れるまでこれまでに知り得たことを備忘録にしておかねばならないと考えました。

 私自身には頗る大事なことですが皆様には面白くもなんともないでしょうからさっさと読み飛ばしてください。

 二代目田村前名が建立した前名寺は偶々私の実家の菩提寺でもあり亡くなった先代住職には何かとありがた迷惑なお世話も沢山被った私でした。

 気さくだった先代住職さんとは気楽に話が出来る関係でしたが当時はまさか今の私の興味の対象になるなどとは思いもしませんでした。もっと長生きをして下さったら良かったのにと今更ながら悔やまれます。

 その前名寺の歴史書守塔敬誌には以下のように記されているそうです。

当山の鎮守天満大自在天神は菅公ご父子のご真筆にして、尊い由緒ある宝物なり。
人皇59代宇多天皇の右大臣 菅原道真公は左大臣藤原時平の讒言により九州大宰府に流される事となる。
道真公の嫡子が父君と別れるに当り御姿 を画かれたのであるが、父君はその情を哀れみ、自ら筆をとり、お姿の上に日月と常に寵愛されていた梅松を画かれ、 且つ示して曰く「日月は天地の父母なり、梅は寒苦を経て清香を発し、松は千年を経て尚、 志節道義を失わず」と 諭され、道真公は別れを惜しんで大宰府に立たれた。
現在天神様の絵に梅松を画くのも、この謂れからである。
 その後その尊像は足利尊氏卿の御手に渡り、元弘時代、但馬の住民朝倉広景卿が足利方に属し、武功の恩賞として 延元元年(1336年)越前の守護に任ぜられ同時に足利家に伝わるこの一軸を越前城の鎮守として祀るべしと、尊氏卿より朝倉家に賜った。 天正元年(1573年)八月十三日、広景卿の後裔義景卿が織田信長勢に攻めわれ、江州田上山を立ち退きし際、士卒悉く途中で討死し 義景卿の身辺に危難漸く切迫した。
この時当山開基初代田村善名是輝は嫡子是法と力を併せて敵兵を払い、主君を擁して漸く一乗谷に帰城。更に賢松寺に撤退されたが衆徒散乱、或いは士卒変心して今はその頼み難きを知り、義景卿は腹心の田村父子に対し我が命既に窮れり、汝等これより神仏に帰依し家伝の日月天神軸を守護して越中に下り、霊地に一寺を建立して予が願望成就を計れと云いつつ一軸を授けたまい、はかなくも自刃されたのである。
即ち天正元年(1573年)八月廿日御年41歳なり。田村父子厚く葬り、主命を奉じて当生地村へ下り、時を待つと雖も乱世の事とて容易に御御堂を建立し難く是輝は嫡子是法に託して卒す。即ち天正十年(1582年)正月三日なり。
是法、主君の願望と父の遺言を日夜思いつつ只菅天満宮の建立を祈念し幾多の辛酸をなめ、天正17年(1589年)魚津常泉寺代四世琴峡文宅大和尚を請して生地村宮川町に善名寺(後に前名寺と改称)を建立せしが、人家稀にして帰依する者少なく大堂とならざるを憾みつつ寛永五年(1628年)6月22日、齢85歳にて逝去す。
田村初代是輝念願以来、星霜272年を経て弘化2年(1845年)に及び11代前名惟寧(これやすし)の時、金沢天徳院第21世 末徹黙笑禅師(すえとおるもくしょうぜんじ)を法地開闢(かいびゃく)として請し、現在地に日月天神の軸並びに天神象を安置し奉る。 こぞってご参詣賜り、その功徳の広大無辺を感得し、学・文・諸願成就を得られん事を願う次第なり。
 とありました。

 だがこの記述の中で天正元年(1573年)に主命を奉じて当生地村へ下りとありますがここからが私の主観が入ってくるのです。

 まだまだ乱世の越中において落ち武者同然の田村父子が簡単に落着ける場所など見つかるとは思えません。

 越前の朝倉家を滅ぼしてからの織田信長は加賀から能登、越中へと手を伸ばし、武田家を倒して一層上杉家を圧迫して我が新川郡へと圧力をかけていました。


 佐々成政を手先に越中を攻略していた時、朝倉の残党である田村父子が安住できるところなどあるとは思えません。この時、織田軍に抵抗する勢力の一向宗か上杉家の下に潜り込むのが常識的だと思うのです。

 朝倉義景自害の際まで側を離れず仕えた田村善名是輝、是法父子は朝倉家伝来の家宝日月天神軸を託され「越中の霊地に一寺を建立して月日天満宮を祭れ」との主命を奉じてこの地にやってきたわけですが何ゆえこの地に霊地があると義景が知っていたのでしょうか?

 生地の地がその昔、新治村といわれていた時から全明寺や新治神社などが存在し中央からも人の行き来があったとは思いますから多少は知られていたのかもしれませんね。

 織田軍や上杉軍に攻められて四苦八苦している地侍や門徒衆がこの地で寄って立てるのは生地の南辺に富山湾、越乃湖に挟まれ周囲を濠を切った立野館しかないはずでした。

 その郭の一角に田村父子が主命を果すためにとりあえず身を置いたと考えることは無理がなく私が知る限りの“海辺の森林浴あん”の歴史と齟齬が発生しないと考えました。

 この地に辿り着いて直ぐに身を置いたのが我家の隣の敷地であり後に浦方十村役に任じられてからもその場所が役宅になっていたと考えるのが私には自然でした。

 本能寺の変を経て豊臣秀吉の富山攻めで佐々成政が降伏した時、越中の戦国時代は終わったと言われています。そして文禄四年(1595年)に前田利家は豊臣秀吉からこの地新川郡を加封されたのです。

 初代善名是輝は天正十年(1582年)、本能寺の変があった年に主命を果せずに病死したことになっています。

 前田家二代藩主利長が慶長年間に是輝の子、善名是法を召しだし前田の一字を賜い善名を前名と改名させたと言われています。以後歴代前名を12代に亘って名乗ったのです。

 朝倉の残党である田村父子が落ち延びてから30年ぐらいも経って何故突然破格の待遇で前田家に召しだされたのかが私の興味を惹き付けるところなのです。

 加賀藩記録に無役代官浦方十村役千三百石被仰付新川地方浦方散小物成銀取立方加役被仰渡とあります。つまりは藩主直属の代官として東国境から西岩瀬に至る十九ヶ浦の肝煎を統率し入出港貨物検分徴税から漁場、魚網、漁船の検閲監視課税に至るまでを職分として藩政時代を通じて続いていたのです。

 前田家との間にどのような因縁があったのだろうかと不思議に思いました。前田家は余程人材不足だったのでしょうか?

 前田家が菅原道真の後裔だと詐称しているのに付け込んで日月天神軸の威力を働かせたのでしょうか?

 前田家の家紋は菅原家と同じ梅の紋です。我家もそうですがこのあたりでは菅原道真を敬うことは何の抵抗もなく受け入れられています。それは前田家の領国支配には真に好都合であったことは間違いないでしょう。

 戦国末期、“海辺の森林浴あん”において我が先祖源左衛門が田村父子と何らかの深い関わりを結んだことは確かなようだと思わずにはいられない私です。

 何しろ本丸の一郭を差し出したようなものですから、、、、、

 鯛や平目の魚影濃い竜宮城のような“海辺の森林浴あん”に居ついた田村父子には頗る居心地が良かったのだと思います。主命は果せずなくなっていくわけですがその間に何かを成し遂げたはずです。

 少なくとも我が先祖源左衛門と田村父子が協力して加封当初、前田家の新川郡浦方支配において喉から手が出るほど欲しい重要な機能をこの地に創造していったのだと思わずにはいられない私です。

 このテーマについて何らかのブレークスルーがあるまでこのネタは充分に醗酵させたいと能天気に考えているのでした。

 だが「食の部品化」を通じて黒部の鯛や平目をより美味しく感じてもらえる素晴らしい物語が生まれる予感が否が応でも高まる私です。

2011年06月19日

鯛や平目

 春の蜃気楼の季節も終わりかかっています。蜃気楼の出現を待ち構えて望遠レンズを構えている人の数がめっきり減ってきました。

 今年私が見た光景は新湊の大橋が巨大に伸び上がりくっきりと対岸に聳えているのに尽きました。そんな凄いものが造られているなど知らなかったのです。

 蜃気楼は実体をよりリアルに表現してくれることもあるのではないかと思った次第です。竜宮城の存在を信じるようなものには未だかってお目にかかったことはありませんがあって欲しいと思うぐらい今回の東日本の津波災害は悲惨でした。

 未だ行方不明の方々の大半が竜宮城で無事に暮らしておられたならばどんなに嬉しいことでしょうか?何れ浦島太郎のように帰ってきても良いのではないでしょうか。

 日曜日の今日こんなことをとり止めなく考えて久しぶりに裏の海辺で海面を眺めていました。朝刊の運勢欄に“ふと振り返ると意外に進んでいる。休もう。”とあったのに便乗してしまったようです。

 “海辺の森林浴あん”の裏の海は江戸時代の藩政期、加賀のお殿様が召上がる鯛や平目のご漁場でした。鬱蒼とした魚付き林が海岸まで迫り出して多くの魚の産卵を誘っていたのです。

 私の拙い歴史考証は自分に都合の良い“海辺の森林浴あん”の古代ロマンを創り上げてから少し間があき、膠着気味でしたがこの時少し閃くものがあったのです。

 良い漁場があり加賀のお殿様のためにこの漁場を特別に管理する役目を担っていたのが越中の東半分の漁村を統括する浦方十村役でした。代々この役に就いていたのが田村前名でした。初代が朝倉義景の家臣で落城の折、主命でこの地に落延びてきたと伝えられています。

 その時私が思い浮かんだのは我が先祖である代々の源左衛門とこの田村前名が関係を持っていたのではないかということでした。

 鎌倉後期、若しくは室町前期の我家の源左衛門廟があった場所は我家と我が祖父吉次郎の母、志ての実家久四郎家の間にあり、鬱蒼とした雑木林でした。

 そしてその周りの土地は明治初年の土地台帳では田村前名家の跡取りである田村惟昌が所有していたのです。これは私が源左衛門の所在を辿るために法務局で明治の土地台帳を閲覧させてもらった時に隣の地番に書き記されていたからです。

 その時は何気なく見ていたのですが今になって考えるとこれには深い意味が隠されているようでした。そうなんです江戸時代には田村家の屋敷は我が立野にあったと言うことは田村家文書からも確かなのです。

 明治二年、維新のドサクサ時に今の立山町で起こった越中ばんどり騒動は主犯宮崎忠次郎に率いられ略奪を重ねてこの地まで至り田村家をも焼き討ちにしたそうです。

 田村家はその1年後に今の地、生地で再建されたことになっていますが当時立野といえば経立野か山立野しかありませんでした。我家の隣が当時の浦方十村役所である田村前名家であったことは間違いないでしょう。

 何故“海辺の森林浴あん”を含む広大な魚付き林の大半の好漁場を永代にわたり隣の生地村に貸し付けていたのかが解りました。

 そこを支配していた田村浦方十村役の屋敷の裏浜ですからそうしたのでしょう。魚付き林を縫うように続いていた私が記憶する殿様道は田村前名が加賀の殿様を自分の役宅に案内した道だったのです。

 急激に深まる富山湾ですがこの浦は800メートル沖には場市の堤といわれる海嶺があり、海盆を為しているのです。そこには黒部川の伏流水が自噴し、汽水状態をなしているはずです。

 たくさんの魚が汽水状態で成長するプランクトンを求めて集まり、魚付き林の庇護の下、好適な産卵場所だったでしょう。

 まさに九州日出の城下かれい状態の鯛や平目が泳ぐ竜宮城だったのかもしれません。美味いわけです。この美味い魚に目をつけてこの地に屋敷を構えた田村前名は大した者です。

 何故我家の源左衛門廟が飛び地にあったのかが解ったようです。田村前名が入部した時に屋敷地として接収されたわけですが流石に墓地だけはそのままに残されたのでしょう。

 これにて戦国時代後期からの我が“海辺の森林浴あん”の古代ロマンを探る糸口が田村家の歴史書を手繰ることで開けてくるのではないかとほくそえむ私でした。 

2011年06月07日

ニーズと共に暮らす

 我家の庭や畑は除草剤とは無縁です。そのようになってから何年経ったのか忘れてしまいました。飽くなき雑草との格闘の日々でした。

 見っとも無いから除草剤を撒けと言っていた親達も今は何も言いません。野鳥や野生動物にはサンクチュアリーであることは間違いないようです。

 彼らの安全な食料はまた我々家族の食料でもあるのです。程よいところで折合いをつけて分け合うルールが出来つつあり収奪されるとの恐れから来るストレスからも漸く解放されつつあるこの頃です。

 カラスや雉などの大型の鳥類の食欲を満たすのは半端な量では足りません。鳩さんなどは種を啄ばむぐらいですから可愛いものです。

 最近、畑仕事に取り組みだした後輩が時々私が畑にいる早朝を目掛けてやってきます。“カラスに盗られないないためには如何したらいいのですか?”と聞くのです。

 “カラスが食べる気がしなくなるものを作れば良いんじゃないの。”と素っ気ない返事をする私です。カラスは美味しいものしか食べません。

 人に美味しく安全なものはカラスも大好きです。だが虫は人やカラスに良いものは嫌いなようですから虫の好きな野菜を作れば良いんだと言っている心算なのです。

 人に良くって美味しいものを作る以上、カラスにも分け前は与えねばなりません。完全な盗難防御を構築するコストを考えると分け前を与えても充分収穫がある量を作れば良いと思う私なのです。

 家族が喜ぶか如何かを前もって評価してくれていると思えば検品のため試食をしてくれているのですからありがたいと思うべきです。

 ひょっとして腹を壊すかもしれないリスクを背負っての得がたいお毒見役かもしれませんね。と鷹揚にいえるのは1割以内の量だと思いますが。

 完全防御に見えないようにささやかな工夫で1割以内に押える工夫を続けるには彼らの本質を充分に見極める必要があります。

 敵は絶えず変化し強化され、動機に必然性があるのです。そうするニーズが充分あるようです。彼らも絶えず新しいものに挑戦していることを実感するのです。

 家族のニーズに応えて家族の満足する質と量を調達することが私の半農の基本なのですが彼らもまた新たなニーズを探し出す一つのフィールドとして私の半農を選んだのでしょう。

 数ある畑から何故私の畑に拘るのか?それは彼らのニーズに私が絶えず応えているからだと自己満足するのが私のストレス解消法かもしれません。

 今年初めての彼らの変化は驚きでした。何十年来経験したことのないことでした。その出来事は収穫が開始されたソラマメの畝で起こったのです。

 前日試に畝の端から数十個を採り籠に入れて車の荷台においていたところ突然一羽のカラスが舞い降りてきて一莢を摘まんで飛び去ったのです。

 カラスはソラマメを食べないと思い込んでいる私にはただの悪戯としか映りませんでした。その朝のみるいソラマメは充分満足できるものでいよいよこれから継続的な収穫が始まるのだと喜んでいたのです。

 ところが翌朝、件のソラマメの畝で何かが起きている気配があるようですが一体如何なったのかが直ぐには理解できませんでした。

 前日私が収穫した数本のソラマメの木にはまだ充分に実が付いていたはずですが綺麗になくなっているのです。そして丁寧に皮を剥いて綺麗さっぱり食べつくしてあるではありませんか。

 絶対美味しいと思ったと解るような食べ方なのです。食い散らかしたようなものではなくご馳走さまと言っているような行儀の良い食べ跡なのです。

 一本づつ順番に平らげて行く心算なのでしょう。これでは堪ったものではありません。見栄を捨て一気に防衛体制に入るわけですが現金なものです。

 そうこうしている内に少し気に掛けていた一番花房の大玉トマトに被害が飛び火したようです。まだまだ青く硬いはずのトマトを悪戯こそしても美味しいはずはないと思っていたのにソラマメの仕返しに来たのかと考えさせられた不意の襲撃でした。

 だがそのトマトの食べ方は一番大きい実から順に綺麗に皮だけ残して食べつくしているのでした。彼らのニーズが大きく変化したのか私の野菜が彼らのレベルに近づいたのか?

 このままでは我家の食卓にのぼるまで残してはもらえそうもありません。最早カラスと戦うしかないと思ったのです。やっぱりそこそこカラスの嫌いなレベルに落とさざるを得ないのかと自分勝手な屁理屈を考える私でした。

2011年05月30日

大自然に手加減はない

 西暦1154年8月10日と8月11日、富山地方で激しい地震が起きたそうです。最近は数百年に遡って地震災害履歴を調べ、現状の防災対策を見直す機運が高まっているようです。

 その時、我が富山県東部の新川郡の海岸で大きな陥没が起き、死傷者が沢山でたことが記録に残っています。

 “海辺の森林浴あん”の直ぐ北側の海岸で富山湾に大きく迫り出している鼻が津波によって消失していったようです。古文書には海嘯被害となっていました。

 約100年の歳月を経て黒部川が吐き出す大量の砂礫が海岸を修復し人もまた以前のように住み付いたといわれています。

 災害時に失われた人命や家屋は海の藻屑と消えてしまい、その記憶もない新たな人々によって集落が形成されたと思われます。

 鎌倉幕府の成立以前のことですがその後の100年を経て以前にましての賑わいをもたらしたのはこの地がそれだけの価値があったと考えるべきでしょうか?

 昨晩は台風2号が温帯低気圧に変わった後の暴風雨が吹き荒れていました。今朝には少し風が治まったようでしたが昨日の午後から吹きだした風は台風そのものより威力がありました。

 北米大陸を荒らしまわっている竜巻のような凄みのある風音に真っ暗闇のまま家ごと空に舞い上げられるような気持ちを味わっていたのです。

 知らない間に家もろ共空に舞い上げられて木っ端微塵になるのならしょうがないですが今にもそうなりそうな気配をずっと感じているのは拷問に耐えているようなものでした。

 温帯低気圧のほうが広範囲に猛威を振るうとしたらもう少しネーミングに工夫してもらいたいものです。軽く見て見縊ると大変なことになるのではないでしょうか?

 今回の風向きは普段経験するのとは少し異なっていたせいか思わぬ風の動きを目撃させてもらいその授業料としては高額な被害を差し出すことになったのです。

 風の局所集中による風速の増大でした。昼過ぎから急に吹きだした風の音を聞き、簡易固定していたトマトとキュウリの苗が心配になったのです。

 確りと固定しておく必要を感じて合羽姿で黙々と作業を開始したのです。だが普段の少々の嵐では建物に囲まれている我が畑は比較的風が柔らかなはずでしたがこの日の風はまったく違っていました。

 畑の裏側を通っている細い通学路は少し北側で北東方面が公園と空地で空間が開いているのです。

 そこから通学路に集中して吹き込む風は畑の手前で集約されジェットストリームのように掠めて行きました。そしてそのストリームの余波が畑の中に舞い込んでくるのでした。

 数十秒間隔で轟音を立てて通り過ぎるのです。ここに風力発電機を置けば凄い事になりそうでした。

 温帯低気圧とはいえ各所で前線を刺激して乱気流が発生しているのでしょう。遠くから飛ばされてきた大きな看板のようなものが賑やかな音を立てて通り過ぎる通学路でしたが“たまたま今日は日曜日でよかった。”と安心した私です。

 まったく手心と言う言葉は大自然には似合いませんね。安心や安全にはもっともっと、国や個人も投資しなければならない余地は大きいようです。 

2011年05月27日

同時解決はビジネスにはならないのか?

 暑い夏のような日差しが少しおさまり、梅雨のようなしっとりとした穏やかな朝は気持ちの良いものです。

 植え付けから2週間近く過ぎた我家の稲は確実に根が活着し元気よく伸び始めました。そして畑の夏野菜たちも確りと根が付いたようで茎を太らせ大きく成長しだしたのです。

 毎朝の収穫も小さな竹篭一つでは足りなくなりました。採取と水洗いの時間も最早馬鹿にならず、野菜の枝の誘導、根元の土寄せなどにてきぱきと時間配分を心掛けなければならなくなったのです。

 前日の朝、新たに畝を拡張し蒔いた二十日大根の種が気になり、今朝一番にそのエリアに向かったのですがその直ぐ隣、トマトエリアの支柱の上に野鳩のつがいがとまっていました。

 近づいても逃げようともしない彼らを見ていましたが私に気づいてもまったく気にも掛けない様子でした。

 彼らの目線の先にある件の新しい畝では昨日私が蒔いた二十日大根の種が暴かれ啄ばまれてしまったようです。

 野菜の種は彼らにはまたとないご馳走だったのです。しょうがないと思ったのですがつい手を大きく振り彼らを立ち去らせ、嫌々ながらも網で畝を覆ってしまう私でした。

 トコトンこまめに先を読んで処置して置かなかった罰でしょう。可愛い鳩の事など考えも及ばず憎いカラス対策に気をとられていたからです。高い電柱の天辺でカラスが笑っていました。

 先日からニュースでソフトバンクの孫さんの決意表明が大きく取上げられてあちこちで波紋が広がっているようです。本気で太陽光発電事業に乗り出すらしいですね。

 我がテラソーラー事業との関連はいかがなものかと仙台の長男からもこの記事のURLが送られ来ました。やっぱり大きなお金を動かせる人の発想は違いますね。

 少し前までは休耕田、耕作放棄地は食料自給率に絡んで議論されていたように思うのですが今回は用地転用に政策転換し自然エネルギーの産業化へと変わって行ったのです。原発事故の大きな影響ですね。

 私の考える電農システム事業では農の継続は日本が今直面している食、健康、環境、新エネルギー四大問題の同時解決が目的であり、それこそが最適ソリューションであるとしています。

 新エネルギーだけを切り出して新しい事業として大企業が行なうことは即ち農の破壊であり農村環境、経済の崩壊そのものに繋がります。

 彼らが主張している休耕田、耕作放棄地の有効利用は絵に画いた餅ではないでしょうか?何故ならそれらの土地は地域で虫食い状態に存在しその多くは農耕不適地に等しいのではないでしょうか?

 そんな処は太陽光発電にも不適で仮に好適地を纏めて調達することは良好な農地を農民に放棄させねば叶うことではありません。こんな話に乗る知事さん方は次回の選挙で負けるしかないのではないかと思う私です。

 農家がこの新エネルギー生産を担わない限り日本では難しいはずです。そのためにこそ今までの太陽電池の概念を変える発想が大事であり、農の存続こそが総ての解に繋がると相変わらず嘯く私です。

2011年05月23日

事業計画のない事業

 誰かに新事業への協力を頼むとすればその事業の計画を示さねばならないでしょう。特に金融機関などに資金の提供を頼む場合はこの計画書の出来具合にその成否がかかっているといっても過言ではありません。

 このことの常識は認めるとしても誰もこれまでやったことのない新事業に対して売る側が自分の都合で勝手に作った販売計画に基づき書上げた美しい事業計画書は本当に信用されるとは思えない私です。

 既存のお客さんがまったく存在しない新市場を開く新事業は販売計画を書くだけ無駄に思えるのです。

 やり始めてみて初めてぼんやりお客さん像が浮かび上がってくるのが本当のところではないでしょうか。自分でこうあって欲しいと思うとおりになど行くはずがありません。

 私にとって一番好い加減に開始した酵素風呂あんはまったく事業計画は存在しませんでした。出入りの植木屋さんや妻の友人達が勝手に算盤を弾いて採算を論じたり、親族は倒産の危機に貰い被害が及ばないかと心配したものです。

 だが私たち夫婦は事業の採算性については何も心配していませんでした。採算が取れるなどとは端から考えてもいなかったのです。

 先の解らないことに挑戦する喜びと引き換えにして投下したものを総て失っても構わないと妻は言っていました。

 だから開店しても一切の営業を行なわないことを事業戦略としたのです。お客さんが価値があると思うかどうかはお客さんが決めることであり自分達は充分価値があると認める最初の客だと思ってお店の総てが自分達のためにだけあっても構わないとまで考えていました。

 だが自分はただの一人であるという自明のことを解決するには他人の力を借りなければ自分自身がユーザーたり得る事すら出来ません。

 そのためには一人二人と協力者を求めねばならないことは確かでした。そのために事業計画を話すことは一切なく同じユーザーにならないかと誘うだけでした。

 しょうがないと思って一緒にユーザーになってくれた方々の協力を得て事業が継続できたと思っているのです。ユーザーが集まって事業をやっているのです。

 この仕組みがないと自分の健康生活が成り立たないと思ってくれた方々が出来る範囲で手を貸してくれたことで事業が開始でき継続できたのです。

 お陰さまで今多くのお客さんがあんの顧客になり強力な営業になってくれました。顧客を創造することが事業なのだと心から思えるのです。

 お客さんが顧客に変わり、その方たちがあんの事業計画を新しく創り上げているのだと考えている私です。

 私自身が最初のユーザーであるあんの事業計画を自分で作ることが出来なかったわけはここにあります。売る側で勝手に作った販売計画はユーザーから見るとお笑い種の何ものでもないと思えるのです。

 経営者は誰にも増して客体験すべきだと生意気を言うのもこんなところにあります。プロとはその役割になりきって考える力を絶えず磨く人だと思う私はユーザーになりきれるのもその一つの道だと思うのです。

 何となく上手く事業計画が作れない言訳に聞えそうですね。それと久しぶりのエントリーになりました。

2011年04月29日

ありがとうがノルマ

 今日は昭和の日です。昔は確か天皇誕生日でそれからみどりの日になりまた替わったとのことです。

 明治の日や大正の日がないためか昭和の日というのに馴染めず未だに天皇誕生日やみどりの日だと言い出しかねない日です。

 国会中継を聞きながら朝刊に目を通しているとあんの電話が鳴りっぱなしでした。暫く遠くで誰も受話器をとらないと私がテレビを消音して受けざるを得ないのです。

 午後からの入酵予約が殆どで空いている時間の確認から話が始まります。9年目に入った我が酵素風呂あんは漸く一定の認知がされたのか空いている時間をこちらが指定して埋めるようなありがたい日も時々あるのです。

 繁閑の差が大き過ぎることを厭わねばこれはこれで結構楽しいことでこの大きな繁忙の波に身を任せる心地好さも少し解りかけてきました。

 チラシはお客さんを散らすと誰かに教えられたことを信じて一切の宣伝をせずに何処まで続くのかが私たちの実験だったのです。

 一日僅か一人のお客さんでも必ずありがとうを聞かせてもらうことを目標にしてきましたがおかげさんでこの目標だけは達成できたようです。

 このありがとうが次のありがとうを連れてきてくれるのだと身体で理解できるにはやはり10年ぐらいは当然かかるものなのでしょうね。

 だが地域での認知度は未だに低いことは事実です。低いので当然であり高くなってはいけないのかもしれません。

 何となく思うのは認知度が低いことがお客さんにとっての価値なのではないかということです。それが一番の販促ではないかと思う私です。

 販促とは販促しなくても良い状態を創る為に今何を為すかと言う戦略行為であると誰かが言っていたような気がします。

 体感しなければ解らないサービス、ましてや一度や二度で解る可能性が低いサービス事業である我が酵素風呂あんは販促しない販促が販売戦略なのだと相変わらず訳の解らないことを言っています。

 身体に蓄積された毒素を汗と共に排泄することは当然としても心に溜まった毒素を言葉と共に吐き出すことの大事さがサービスの基本であると考えるが故に認知度は低ければ低いほど顧客には価値が高いのです。

 それでは商売になり難いではないかとの指摘はよく受けました。だがそれでも事業継続できるささやかな収益モデルも10年掛ければ出来るだろうと楽観していたのです。

 そのビジネスモデルは私流に言えば鯛で海老を釣ると例えることが出来ます。海老で鯛を釣ってはいけないということです。

 お客さんが我がサービスを鯛だと思っていただくまで黙って待つしかないと思うのです。幸運にもそう思っていただいたお客さんが喜んで繰り返しささやかな海老を買っていただくことが事業だと心底思えるのです。

 こんなスローなビジネスを臆面もなく書けるのも古き昭和を懐かしむ日が今日であるからかもしれませんね。 

2011年04月20日

微弱は超過激

 巨大な原子力エネルギーを活用して豊かな文明を築いた心算が思わぬ落とし穴にはまってもがいている今の日本では弱者はただ耐えるしかないのかと思っていたのも束の間、すっかり発想を転換して新たな挑戦を始めているのです。

 微弱な未利用エネルギーの活用に活路を見出すのが我がIDSネットワークス事業のメインテーマですがキーステーションである仙台のisが今回の震災でこれでもかと言うほどの物理的打撃を被ったのです。

 だがコアコンピタンスは頭の中にあるということが強みである限り、身軽になって前進あるのみです。

 原子力にとっては鼻で笑うほどの取るに足らない微小な自然エネルギーを幾らちりとりで掃き集めようとも腹の足しにならないと常識的には考えられていることでしょう。

 私もそう思いながらも微弱電源で事足りる世界は山ほどあり、そこまでグリッドを延ばすコストを考えれば活きる道はあると信じていました。

 ところがそうとも言えない様なレポートを目にして目から鱗だったのです。そのレポートはアメリカのシンクタンク「ワールドウォッチ研究所」が4/15日にまとめた2010年の世界の原子力産業に関する報告書でした。

 原発は、安全規制が厳しくなったことや建設費用の増加で1980年代後半から伸び悩み、2010年の発電容量は3億7500万kwh。一方、再生可能エネルギーは地球温暖化対策で注目されて急激に増加し、風力と太陽、バイオマス、小規模水力の合計は3億8100万kwhになり、初めて原発を上回った。と。

 再生可能エネルギーの利用増加は急カーブであるとは思っていましたがまさかここまでとは!驚きでした。

 地元紙には記事が載っていましたが全国紙(日経)には見当たりませんでした。これまでの論調には合わない不都合な事実なのでしょうか?

 使い勝手の悪い再生可能エネルギーですから便利な仕組みにはカウントされないのかもしれませんね。我家の自家米や縁故米などと同じで生産額にカウントさせないのかもしれません。

 だがそうなれば超微弱な環境発電でも漸くその再生可能エネルギーに上乗せすればないよりもましな存在になってくるようで元気が出て来るのです。

 人の呼吸や脈拍すら微弱な振動として捉えようと狙っている現在、プラスからスタートできることなど考えてもいませんでした。

 いよいよ微弱な弱連結が超過檄に動き出す時がやってきたのです。などと漸く能天気に思える私です。 

2011年04月12日

事業創造の今は?

 「何故豆腐をつくるのですか?」と不思議そうに訊ねられたことがありました。私が9年前、半農半コンを開始した直ぐ後で訊ねた相手は当時私の秘書をやってくれていたFさんでした。

 欲しいときスーパーに行けば多種多様な豆腐が所狭しと並んでいるのに自分で作らねばならないものが何故豆腐なのか?納得できないようでした。

 「好きだから。」としか答えられない自分を感じて改めて考えてみたことがありました。豆腐をつくることが好きなのか?豆腐を食べるのが好きなのか?

 会社のリストラ真最中に何故取るに足らないたかが豆腐作りに血道を挙げねばならないのか?彼女には理解できなかったようです。

 米作りや野菜作りにしても同じように思っていたのかもしれません。だが私にとっては豆腐作りは干物作りと同じ範疇で半農ではなく半コンの力を少しでも高めるための日常の反復経験であると信じていたようです。

 極力毎日作ることを繰り返す日常性の中でただ見たり聞いたりの知識だけではなく試してみることの大事さを身体で知りたいと思っているのだと生意気に考えていました。

 レシピをもとに作れば誰だって作れるものだと思えばただの暇つぶしで終わるでしょう。分刻みで忙しい早朝に30分の時間を限って作る意義があるとすれば好きであると言う以外にないのかもしれません。

 究極の豆腐を目指すなどと考えているわけではなく朝食に当たり前の出来たての豆腐を家族と味わいたいと単純に思っただけでした。

 毎日繰り返す単純なことの中で、当然のトラブルや異常に遭遇しそれに対処するための新たな思い付きを試してみることが如何に日常的なのかを知ってしまった以上、。こんな楽しいことをやらないてはないと思った私でした。

 そしてそのうち自分で日常を壊して新たな結果を求めてトラブルを引き起こすことがもっと楽しくなりました。

 そのたびに家族からクレームが出るのです。豆腐は何時も普通の豆腐であって欲しいと想われていることは確かなのです。

 母などは私を庇っている心算なのでしょうが「ぼそぼそしているが味は好いね。」と上手く表現できないのなら何も言って欲しくないと思うような態度でした。

 敢えて私が次のステップを考えて試しているなどと言えば言訳としかとられないことは確かでしたがその先の新豆腐すら成功する確率は低いのも当然でした。

 要するに何時もの当たり障りのない普通の豆腐が望まれているのです。だが私のなかでは各種の豆腐料理に夫々最適な豆腐を作り分ける製法の開発がテーマになっていたのでした。

 我家ではたかが豆腐にそこまで価値を置いていないことは明らかでした。その点においては口には出さぬが気持ちはFさんと同じだったかもしれません。

 単に大豆好、水好で作ってくれるならそれはそれで好としていたのです。スーパーの棚から突然豆腐が姿を消す日が来ない限り、私の30分の開発行為を評価する家族は現われるはずがないのです。

 その毎日の豆腐作りもSEAちゃんがあんのボランティアに来てくれるようになって終わりました。彼女の家から頂く、本職豆腐屋さんの豆腐を食べるだけで手一杯なのです。

 どの豆腐がどのような意図で作られているかが判るだけの知識とそれを作るときの職人の気持ちが分かるような気がするようになっただけでも充分だと思っているのです。

 それと気が向けば届けてもらう新鮮な豆乳から簡単に好みの豆腐を作り上げることができる自信がある限りいまだに私の豆腐作りは終わっていないのかもしれません。

 日常的反復のなかで当たり前のようにトラブルシューティングを経験し、敢えて非連続的状況を自ら犯してでも新しい未知の環境に身を置くことができるのもたかが豆腐作りだからかもしれません。

 願って起こしたのではない思い掛けない非日常がやってきた今、この状況の中で自分にどんなことを試せるのかが問われるのかも知れませんね。

2011年04月06日

想定外が日常

 私の事業創造にはこれまで予想もしなかったトラブルに突然見舞われ一瞬目の前が暗くなり、暫く頭の回転が停止してしまうことが数え切れないほど襲って来ました。

 だが順調に事業化が完了していない限り大きなトラブルによる環境変化はなんとなく固定化した思い込みを打破するきっかけになっても事業創造を中止することはありませんでした。

 今回の大震災は知人友人の多くに想定外の被害と大きな悲しみをもたらしましたが事業創造が停止したわけではありません。

 特に大きく変化した事業環境に合わせて考えることは幾らやっても飽きることがありませんでした。

 自分自身が被ったとるに足らない被害などは考えを変える良い効果があると思われます。ましてや甚大な被害を被った方々が信じられないほど明るく振舞っておられるのを見ると凄く勇気づけられるものがあるのです。

 そんなわけで思ったことや思っていることはこれまでに増して沢山あるのですが思っていることや思ったことをそのまま表現するのが憚られるような感じが已然している私です。

 日常の事業創造の中で思ったことや思っていることをそのまんま書くのが私の事業創造考であった訳ですからこれほど思うことが多い時期にエントリーがまったく進まないのです。

 親戚や親しい知人の不幸な死に際して弔いやそれに続く通夜や葬儀、そして法要が執り行われる間での、当たり障りにない慣用句しか口に出来ないような重苦しさを感じているのでしょう。

 これは私に限ったことではなく日本全体がそうかもしれません。場違いに明るい空元気を振りまくキャラクターの登場を待ち侘びているのです。

 皆がそれなりに内に秘めて必死に頑張っているであろう時に“頑張ろう!”と声を挙げるのは正しいことなのだと思いはしてもなかなか声には出しづらいのです。

 言葉を選んで文章に出来る才能などない私が今の事業創造が如何にこの事業環境の変化に適合したビジネスモデルであるかを上手く述べることなど出来るはずがなく無用な誤解をパートナーに与えるだけだと考えるのでしょう。

 時間が総てを消し流してくれるとずるく考えているに違いありません。そしてこの想定外の出来事が日常へ自然に組み込まれていくと思いたいのでしょう。

 日本の美しい自然、特に北アルプスの神々しい山々を毎日見ていると如何に想定外な地殻変動が太古から続けられてきたかがよく理解できます。
裏海岸からの僧ヶ岳.jpg
    ArisMapでは美しい山岳美を実物より強調出来ます。

 地震や津波などにノーガードで暢気に暮らしている自分自身を思うと裏の海岸の形だけの堤防に張られている「津波に注意」の看板は私にとっては気休めのおまじないのようなものなのでしょうね。

2011年03月07日

塵芥を溜める

 毎日のようにお世話になっている酵素風呂では微生物の温床から塵が絶えず飛び散ります。

 特に汗を吸い込んだ入酵着に付着した塵は相当なものです。払い落とすと床が一面オガ粉で覆い尽くされるのです。

 このために工夫した塵払いコーナーにはすのこを敷いてその下には大きなゴミパックが備え付けられています。落とされると簡単にまとめられる仕掛けです。

 一週間分ぐらいは充分溜めることが出来るので大変重宝しています。

 一回一回はたいした量ではなくても繰り返し繰り返し大人数が利用すればそれなりのキャパシティがないと不自由でしょうね。

 現在目指しているエナジー・ハーベスティングなどでは個々にはそれこそ塵芥のエネルギーを出来るだけ電気に変換するものですが充分に蓄えられるシステムと連携してこそ集め甲斐があるというものです。

 幾ら収穫しても満杯になりそうにないとなると収穫手段の一層の改良や増強が義務付られる様な気がするのです。

 最近のニュースによるとリチュームイオン電池などの開発競争が激化して性能の向上や価格の低下が一段と進んでいるようです。

 家庭用で楽々たっぷり利用できる二次電池が10万円台で買える日がやって来ると知っていよいよもってエナジー・ハーベスティングが常識化する日が近づいて来ていると確信できます。

 集め甲斐がある仕組みが備わってこそ本質的な活動が認知されるのでしょうが仕組みの完成に合わせていち早く行動を開始しなければ仕掛けが出来たが活用できないといった恥ずかしい事態になるでしょう。

 時間があれば皆がせっせと塵集めに精出す豊かな日本の姿が目に浮かぶこの頃です。  

2011年03月01日

北のあん

 先月末の札幌は例年になく穏やかでした。荒れるハイデックス・和島の経営計画発表会ですが今年は肩透かしを食らったようなものでした。

 今期を最後に社長交代を宣言されてこれまでやってこられたのですから今回の例年とは違った穏やかさで先行きに不安はなさそうです。

 だが好調であるが故の落とし穴は何処にあるか判りません。慎重に慎重を重ねて事業の承継を目指して行かれるでしょう。

 私にとっても次代の新事業、早急に具体化支援する役割が重く圧し掛かってくるのですがそこは相変わらずの楽天で何とかなると思っているのです。

 これまで進めてきたことを確実にステップアップしていくしかないのですから今更じたばたしてもしょうがありません。ブリザードを覚悟していた時に差し込む日差しを瑞兆と思い込めるだけにまだ焦りは感じていないのです。

 ロケーション事業に賭ける若き次期社長の覚悟も確認できた私にはもう少しぐらい暗雲がかかっていたほうがマイペースを保てるのにと勝手に思ってしまうのでした。

 それ程私の事業創造が平易な道を歩んできたことはないということであり、だからと言ってその困難が事業化を諦めさせたこともなかったからです。

 そして和島さんが自らのセカンドライフの中核に位置付けておられる私流に言う楽して健康ビジネスショップあんはいち早く形を現していました。

 これも和島さん流の後継者に対してのある意味での激励なのでしょう。開店に先がけて私もそのサービスをフルセットで体験させていただきました。

 私ならぜったに出来ないことを和島さんは何の迷いもなく実行されるのです。私なら自分の周りは勿論地域に対しても一切の告知をすることが出来ないのです。

 それ程自信をもってその事業を堂々と開始される和島さんには当たり前のことでしょうが私がやることは自分がやりたいから始めますが勝算がまったくない時点で試行錯誤を始めるから告知が出来ないだけです。

 要するに事業計画がないのです。やっぱり私のあんは自創なのでしょう。北のあんは堂々とした事業を目指していることを確認した私は十年目にして我があんもそろそろ事業化を考えなければならないと思い出したのでした。

 北のあんでうけた施術は私の温熱漬けの身体のつぼに理に適ったと感じられる心地好さを残して突き刺さりました。

 本物であることは間違いありません。本物だと感じられる身体に変えるところからスタートすることの大変さを事業戦略に組み込むことが大事であると思いました。

 その大変さを楽しむことこそが和島さんのセカンドライフなのだと勝手に納得した私です。

2011年02月21日

強気と弱気

 暫く高気圧に覆われて暖かい日が続くと気持ち良く何事にも前向きに取組むことが出来るのでありがたいことです。

 一寸前、寒波が列島を覆っていたときは現下の政治経済状況が増幅伝播して考えることが如何しても内向きになることは否めませんでした。

 もう少しバランスがとれた精神状態でいたいと思うのですが気圧が低くなると人の精神状態にも何がしかの影響があるのかもしれません。

 そんな時にはえてして暗い顔の来客が相次ぐのですがここを先途に笑顔を作って少しでも相手の気を高めようと頑張らざるを得ない休日のストーブ番の私です。

 偶々昨日の日曜日は日差しも強く、あんの休憩室は30度を越える温室状態でした。今年一番の種蒔きを試みようと思うぐらいの暖かさにつられ多くの方で賑わいました。

 最近の酵素風呂あんは休日が特に混雑するようになったのですが何か思いを決めて達成感を味あうことに目覚めた人が増えたように感じます。

 自分の目標が達成されつつある予感を身体で感じている人は明るく快活です。見知らぬ人にも気軽に声をかけ話題を提供されています。

 一方、先日まで明るく快活だった人でも何かにぶち当たり落ち込んで癒されに来られた方も多いのです。先週はあれほど元気で強気の発言をしておられた方が今は夢も希望もないと言わんばかりの落ち込みようを晒しているのです。

 株価の上下に一喜一憂しているようなものかもしれませんが中長期でのトレンドを見てその日の行動を淡々と決めるのは難しいものなのでしょう。

 強気の人と弱気な人の間に入ってバランスとる役目など私に出来るわけはないのですが自分が強気の時は弱気な人のかたを持ち弱気な時は強気の人の話に迎合しているように思えるのです。

 健康の話、ビジネスの話と話題には事欠かないですが最近の話題で多いのは特に起業のことが目立ちます。

 一番はあんのようなお店を自分がやりたいとか家族の誰かがやりたいとか、冗談ともつかないことがあります。

 そんな話題を小耳に挟んでまた新しい人が加わってくると際限なく話がややこしくなってくるのです。だがそんな時は強気の人も弱気の人もそれなりに自分のこととして置き換えて考えておられるようでした。

 そんな起業を目出度く実現するには強気の時も弱気の時もそれなりに一歩ずつステップアップしなければならないことは当然です。

 気持ちの乱高下を繰り返しながらも事業創造を前進させるには強気弱気が日常的に混在する我があんの休憩室などは真に都合の良いリハビリルームなのではないかと考える相変わらず能天気な私です。

2011年02月15日

対極から見る

 裏の海岸から見る富山湾の対岸能登半島は何時も薄黒く霞んでいます。能登半島は標高が低いため海水面から立ち上る水蒸気などでくっきり画像が定まらないのでしょう。

 50km以上離れている古代黒部川が突き当たるところは地図では確認できても実際に目で確認できる日は年間数えるぐらいしかないのではないでしょうか?

 ArisMapを使って対岸を描いてもやはり捗々しくはありません。では相手からこちらはどのように見えているのか試してみました。
登から2.jpg
 我家の裏海岸より北北西50kmにある能登町宇出津港の岸壁から望む。

 能登町役場から真直ぐ宇出津港へ向かった先から天気が良ければこのように見えるはずだと思いましたが果たして見えるのかが気になったのです。

 私が作成したCGでは左から白馬岳、旭岳、鑓ヶ岳、清水岳、唐松岳、五竜岳そして鹿島槍ケ岳へと続く後立山連峰と僧ヶ岳に始まり毛勝岳、剣岳、立山、雄山、浄土山、大日岳、水晶岳、鷲羽岳、薬師岳へと到る立山連峰でした。

 実際には自分の背後がどのように対極から見えるものか気になってきた私です。クルーザーでもあれば直ぐにでも宇出津まで出かけたい気持ちになってくるのでした。

 機会をみてとりあえず車で奥能登まで出かけるしか手はなさそうです。だがそんな都合よく天候に恵まれるなど考えられません。

 対岸に電話して現状を聞きのが一番だと思い直し早速町役場にかけてみました。H/Pにふるさと振興課とあったのでこの課が取っ付きやすそうでした。

 電話に出たのは話易すそうな女性でしたので早速私の用件を伝えたのです。相手の女性は確りメモをしているみたいでしたが二三質問しながら確認した後、上司の課長に何か相談しているようでした。

 上司に替わるのかと思いきや再度彼女が話し始めたのです。“最高に綺麗だと思える日は年に数えるほどですが、まずまず見える日は数十日あります。”と。

 肉眼でよく見えるのか?見えるとしたらどのロケーションか?などと私の質問はくどくなって行きました。

 “何処からでも見えますよ。”と特別なことではないような口振りに吃驚した私でした。“綺麗ですか?”と聞く私に対して当たり前のことを言うなと思っていることがありありと感じる語調で話しているのです。

 どんな風に見えるのかに拘る私に対して彼女は課長から指示されたらしいURLを告げ直ぐに開くように言われました。

 電話から洩れ聞えるやり取りからそのURLは課長さん自身の個人のH/Pのようでした。指示された通り打ち込んだ後、彼女は口頭でクリック先を伝えながら話を続けてくれました。

 開いたページの写真にはCGで見慣れた山容が港越しに聳えていたのです。私のCGより格段に良いことは当然ですが羨ましいが先に出てくる素晴らしさでした。

 そのことを彼女に伝えると明らかに嬉しそうな声が伝わってくるのでした。何か一本の海の道が繋がったような気分がした私は何時か必ずその地を訪ねようと思いました。

 海の国を感じたよりもっと具体的な海の道が存在することを感じた次第です。この海の道をビジネスとして考えた人は昔はかなりいたはずですが北陸新幹線で東京発、新黒部駅経由、宇出津行きと考える人がいても不思議ではないでしょう。 

2011年02月10日

付加価値を見出すのは自分

 北陸新幹線の建設が進んでいる中、開業後の地域経済がどのように変わるのかを考えることがあります。

 莫大な予算を使って建設され、国家予算だけでなく1/3は地元負担ですから他人事ではなく自分のこととして価値を見出し活用すべきなのでしょう。今更中止することなど出来ないでしょうから。

 地域経済がどうなるかなどは私に考える能力もありませんから、ここは自分が出来ることでやるしかないのです。

 盟友田中さんの口癖“私が出来ることは自分の出来ることで頑張ることです。”に如かずです。一人一人がそうした結果が地域経済にも変化を起こすはずです。

 よくなるか?わるくなるか?判りませんが一人一人が前向きに自分で活用するしかないと思う私です。もうお金を使ってしまったのですから。

 私自身が利用する立場の利便性はこれ以上望んではいませんでした。だが歳をとって足腰が弱った時に乗り換えなしで東京へ行ける魅力はありますが、そうなってまで行く必要がない生活をすることの方が大事ではないかと思います。

 翻って考えてみると足腰の不自由な方が我が酵素風呂あんに来られることが多い訳ですからこれは私どもの顧客サービス向上に繋がることは間違いないことです。

 ささやかな集客で満足していた我が酵素風呂あんでしたが新幹線により首都圏方面の方々に対して絶大な付加価値が生まれますが首都圏方面一日一客では経済も何もあったものではないでしょう。

 だがこれは確実な効果だと思います。沿線人口一人当りの投資額に於いては充分回収が可能だと算盤を弾き始めたのです。

 地域全体で各々が自分の価値観で算盤を弾けばけっこう良いところへ収まるのかもしれないとまたまた好い加減なことを考え始めるのでした。

 自分で出来るささやかな付加価値を何十万と掻き集めたならば巨大なビジネスは起きなくても心豊かに暮らせる地域の姿が見えてくるような気がする私です。

 自分さえ良ければ良いというのではないのです。自分のささやかなビジネスがもしキャパシティを越えるぐらいになったならそのビジネスを分け合える友がいれば良いだけだと能天気に思えるのです。

2011年02月07日

休日の過ごし方

 昨日の日曜日は父の月命日には少し早いのですがお寺さんの都合でお参りしてもらいました。

 先代の住職さんが引退され息子さんが跡を継がれましたがご本人はまだ現役の教員ですのでピンポイントの当日にお願いすることは難しく毎回次回の日を相談して決めています。

 このお寺さん実は酵素風呂あんの大フアンでもあります。お参り頂く日の午後は大概来て頂いているようです。そういう日でないと忙しくて来て頂けないのかもしれませんね。

 お経が終わった後、例によって次回の日程を決め、少し世間話をしました。彼は言いました。“午後からは何も予定を入れずお風呂を頂いてからのんびり過ごすのが何よりです。それでまた一週間頑張ろうと思えるのです。”

 疲れて気力が落ちないうちにフルパワー充電するのが私のやり方でした。だがひょっとしたら私のやり方ではメモリー効果で電池の容量がかなり低下しているのではないかとこの話をしながら思い始めました。

 先日も携帯電話の充電し過ぎを大介に注意されたばかりでしたが原始力の充電も同じことが言えるかもしれませんね。

 そんなわけで午後からやろうと思っていたソフトのバージョンアップ作業も止めてのんびりしてみようと思ったのです。

 居間で一人録り溜めたビデオをかけながら読み進まなかった読みかけ小説を眺めていましたが何となく間が持てないものです。

 あんの休憩室では醗酵食品教室が始まったようで妻が朝方作りかけた教材の甘酒を取りに帰ってきました。“何をしてるの?”と聞かれたのですが“のんびりしている。”としか答えようがないのです。

 怪訝な顔をしていた妻が“今日は仕事をしないの?閑ならさっさと風呂に入りなさいよ。序にその甘酒を運んできて。”と命じるのでした。

 その瞬間、解けそうになっていた難問がふっと消え去ったような気がしたのです。のんびりするとは難しいものだと思った私です。

 何時もの日曜日の賑わいが一段落した後のお風呂に入酵しながら深呼吸した時、先ほど消え去ったように感じたものが再度はっきりと浮かび上がった来ました。

 飛び起きて何かに書き止めたい気持ちを抑えるのはかなり大変でしたがそれも束の間のことだったようで直ぐに眠りに落ちたようです。

 結局は何だったのか未だに思い出せません。それ程のんびりしたのだと思うことが出来た久々の休日でした。

2011年02月04日

序が凄い

 “毎日のように酵素風呂に入っていて身体がおかしくならないか?”と私に言っていた友人がいました。

 その彼、Bさんは最近自分から酵素風呂に嵌まりだしたのです。私が何のために入酵を繰り返しているのかが漸く解ったようです。

 自分は特別悪いところがないから付合いで偶に入酵しても良いが何にもまして優先しなければならないものだとは思っていませんでした。

 私が自分の身体が何処まで変わるものかを確かめる楽しみと、そのことが何よりも価値あると思っているからやっているのであってそれ以外に理由があるとすれば楽して健康が成し遂げられるものかも試してみたいと考えるからだと解ってくれたようです。

 Bさんは私に仕事の相談を持ち込んで来た時、その序に自分の自覚のない健康状態を話しました。

 医師に余命半年と宣告され手の施し様がないと言われたとのことでした。冗談のようなことですが彼の顔色はそれを物語っていました。

 話の序に凄いことを言う彼に向かって私の言えることは“良かったね。医者に見離されるとは幸運なことだよ。所詮自分で治すしかないのだから覚悟が決まるじゃないの。”位のことでした。

 それを聞いた彼の顔はパッと明るくなりもやもやが吹き飛んだようです。くよくよして医者に泣きつくより見離された今が幸せだと心から思えるのかは解りませんが事実がそうならば踏ん切りがつくと思う私でした。

 Bさんの難病が自力で退治できるかは解りませんが自力でやるしかないと言われたのですから自力をつける以外にないのです。本来は自力で簡単に治る病でも医者に頼るのが今流ですが自力を増すことを常々心掛けるのは面倒なことなのでしょう。

 楽して健康をモットーにすることは以外に難しいことなのだと改めて実感した私は彼に私の宗旨を説明することにしました。

 以外に素直に私の宗旨を受け入れた彼は自分もこの際被れて見ようと思ったようです。“どの道死ぬのなら楽して楽しく死ぬまでやろうよ。”と言い合いました。

 こんな無責任なことを言えるのも今の医療や介護が本質から外れたところで決められたシステムに嫌も応もなく乗せられかねないのに、ありがたくも乗車拒否にあったようなものだからでした。

 彼の序話が転がっていく先は解りません。だが自分で決め、そしてその経過が自分で可視化できることだけは確かです。

 それを楽しむことぐらいは出来そうならこれまでの人生とは180度違うワクワクした新しい人生にになると思う私です。

2011年01月28日

ハードルを下げるとは?

 私自身が考えたビジネスモデルであるならその本質から外れてまで課金を優先することは絶対にしないでおこうとこれまで思っていました。

 そして理解あるパートナー方は皆、しょうがないと諦め調で容認して頂いているとも思っていたのです。

 とある新事業では幾つも仕掛けた提携策の一つでもフックしたならば皆で笑って元気に再投資に向かえると気を奮い立たせていても私のそのような緊張感ある充実した日々の全容を上手く伝えられない訳ですから私だけが勝手な夢を追っている思われても仕方がないのかもしれません。

 ある会議で、らしくない考えをして何を血迷ったか日銭稼ぎともとれる安直なバナナのたたき売りを始めるようなことを口走ってしまった私です。

 言い訳がましく言うに事欠いて“ビジネスモデルのハードルを下げる。”とほざいていたのでした。本質を解らない人を巻き込んで魂を売るようなことが出来るのかと内心は醒めているのでしたが何故かそんなことを言う破目になったことだけは事実だったのです。

 早急に上手く課金できるビジネスモデルを考えて実現するのが目的ならばそれでも構わないでしょうがこの事業だけは別物だったのですから、、、言い訳がましい理屈は本来通りません。

 高いハードルであることが誇りであり、故に立場が違うが志を同じくする仲間で取り掛かった事業を冒涜することになるのでしょう。

 私が既に意欲を失ったととられても仕方がないような失言だったのかもしれませんがその時は自分でも仕方がないと思っていました。

 嫌でもそうすることで先への可能性を少しでも膨らませることが出来ると思っていたのでしょう。らしくない思考であることは間違いありませんがそうすることが自分の務めであるかのような気持ちに突然なったのでしょうか?

 夢がしぼんでいく寂しい気持ちに襲われそうになるのを必死に紛らわそうとしている自分に気が付いているのですが上手く折合いがつけられずにいた私でした。

 こんな時にこそありがたい友がいるものです。私の心境を察してか?それとも不甲斐なさに怒ってか?

 その友は夜遅くまで付き合ってくれました。友は気持ちよく酔った最後の時に“言わないでいるとあなたが悪者になるかもしれないので言っておくけど。”と言い始めたのです。

 “少なくとも私だけはあなたのやり方を支持する。だからハードルを下げるなどと言わないでくれ。誰が下げたいと言ってもあなただけは下げてはいけないよ。”と静だが力強い声でゆっくりと言いました。

 そして握った右手に次第に力が加ってきました。“何があってもハードルを下げるのは止めようよ。”と何度も呟くのでした。

 それ程彼が大事にしていたビジネスモデルを私の気の迷いから冒涜してしまったのだとはっきりと悟ったのです。それ程彼を悲しませたのかと思うと同時に私のモヤモヤはすっかり吹き飛んでしまったのでした。

 そして絶対ハードルを下げることはないと誓うしかありませんでした。下げて楽しいことなど何もないのです。道半ばで倒れる人生の楽しみがなくなるではありませんか。

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