きれいな別れ
新しい年が来て、もう10日目です。身体が脱皮して漸く世間の風に晒されても大丈夫な気分になってきました。
昨年末までは半農半コン仕上げの時期が近いと感じ、妙に力み過ぎていた私でした。
三人の母(産みの母、育ての母、妻の母)が揃って何時逝ってもおかしくない状態が続いていたのです。どちらが先などとは予想すら出来ませんでした。
ともに人生最終コーナーを同時に回ったと感じていたことだけは確かでした。成るように成るしかないと考え、それまでを仕事で気を紛らわしていたのかもしれません。
その中で唯一気持ちの救いは父(実父)が多少体力は落ちてもまともな会話が出来、時々は一緒に見舞いや買い物に出かけることでした。
取り留めない話しかしませんがこんな時がやって来るなど想像もしませんでしたから不思議な気分だったのです。
父の生きがいは母の最期を看取ることであることはいつもの言動から明らかでした。“苦労掛けた。”と漁に明け暮れて長く家を母だけに託していた昔のことを何時も話していたからです。
三度目の忘年会が済んだ翌23日、天皇誕生日の朝、兄から母が危篤との連絡がありました。こんな知らせは今年何度目だったかな?と軽く考えて病院へ向かったのです。
結果は寸でのところで臨終に間にあいませんでした。父や兄家族も先には着いていましたが同じく間にあわなかったようです。
亡くなった母を家に連れ帰る手配を終え、葬儀屋さんの車を待つまでの間、兄と二人だけで皆と離れて葬儀のことで話し合いました。まずは喪主を誰にすべきか?でした。
足腰の弱った92歳の父では大変だろうから兄が務めるということで意見は一致しましたが念のため父の気持ちを私からさりげなく確認することにしました。
疲れたため車椅子に乗って母の傍で俯いていた父に近づき話そうとすると突然顔を上げた父は私に向かって“喪主は俺がする。”と言い放ったのです。
我々の意図を薄々感じていたのでしょうか?言い返すことは出来ませんでした。そのことを兄に告げ、名目上の喪主は父で、実質的なことは兄が務めるということを決めたのです。
だがこの強い父の意志もここまででした。この後続く一連の葬儀において父は喪主の役目を果たす体力は全くありませんでした。
私が押す車椅子に乗って皆と同行することが精一杯だったのです。兄に全てを任すと言っても良かったのにと私が言いかけるのではないかと恐れているように取れるのでした。
父は葬儀の合間や終わったあとも身体が冷えるようで、私の用意した強力は遠赤外線ストーブの前に寝転び、足裏マッサージを際限なく要求するのでした。
余程気持ちがいいのか何時までたっても「もう良い」とは言いませんでした。私は毎日時間を見つけてやり続けようと思ったのです。
年末年始の酵素風呂あんの長期休業中は自家風呂として父を入れ続け、温かいストーブの前で時間の許す限りマッサージをしようと思ったのでした。
自分の妻の実家を継がすために私を養子に出した経緯、その後に起きた私をめぐるトラブルなど気持ちが良くなったタイミングで順不同に話し始める父でした。
最初は私に対してみっともない言訳を言い始めているのではないかと思って聞き捨てにしていた私でしたがあながちそれだけではなさそうだと思い直したのです。
10日間に渡ったこの奇妙なふれあいの間に父が語ったことは、父と母の結婚の経緯から今に至る父母と私との離隔がはっきり浮かんでくるような話の濃さでした。
そして11日目、新年1月3日の朝、尿管結石で大晦日に緊急入院していた父は突然息を引き取りました。今回も母の時と同じに誰も臨終に間にあわなかったのです。
前日、病院ベットで行った足裏マッサージでは初めてもう良いから帰れと言ったことが印象的でしたが多くのひ孫に囲まれ上機嫌であったことは確かでした。
もう喪主で迷うことはありませんでした。慣れた手順で兄は完璧に喪主を務め葬儀は滞りなく終わったのです。
四十九日までは一つの祭壇に二つの骨甕と二つの位牌、そして二つの遺影が仲良く並んでいます。その日までの仏事やその後の仏事も日を併せて一度に行うことも決まりました。
二人の遺影写真は私が以前一緒に旅行に連れ出したとき写したものを強引に採用したことで自分の気持ちに整理がついたようです。
事業創造でも誰かに望まれて生まれてきたものでなければマーケットは拓けないですが少なくても私自身も父母に望まれて生まれたのだと感じられたきれいな別れでした。

